いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

嗤う「わが家の歴史」と「フォレスト・ガンプ」


先週の金曜から日曜にかけて三夜連続で放映された、フジテレビ50周年記念ドラマ『わが家の歴史』。
どうも最近半年にいっぺんくらいどこかのテレビ局が開局記念を祝っているような錯覚を僕は覚えていて、それくらいに各局自分で自分の誕生日を盛んに祝う風潮がある。


これはどうでもいい話だが、この手のドラマや映画というのを、僕はプロ野球オールスターゲームのようなものなのだと思っている。内容は二の次で、とにかく出てくる人出てくる人に見る者は驚かされる、という意味では今回のもサンヨー・・・ならぬ“サンケイ”オールスターゲームだったんじゃないか。しかしこれまたオールスターゲームと同じで、「何度もすりゃさすがに飽きる」というもんで、ここ最近の「開局記念もの」は、以前の「白い巨塔」などほどには、インパクトに欠けるという印象は否めない。


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それはともかく今回の『わが家の歴史』。多くの人は、開局記念ドラマとしてというよりも、「脚本家・三谷幸喜の手がけるドラマ」として楽しんだのではないだろうか。僕もそんな三谷ドラマ(&映画)ファンの一人であるのだけれど、見る前、どうもいつもとは「ちがうもの」を、このドラマには感じていたのである。いやそれは、「ちがうもの」というよりも何かの欠如といった方が適当だ。


その欠如とは、いわば「バタ臭さ」だ。


「三谷作品」とくくられる作品にはいつも、「和製○○」という言い回しがよく似合う。『古畑任三郎』と『刑事コロンボ』の関係はいわずもがな、三谷作品には西洋由来の脚本術や演出法、そしてそこにお笑いというよりもユーモアやウィットと評すべきものがまぶされているのが、大きな特徴であったはず。

しかし今回の『わが家の歴史』はドラマそのものの放映を待つまでもなく、幾度となく繰り返される番宣では、胴長短足西田敏行演じる純和風の親父さんを筆頭に、典型的な日本の家族の原風景が映し出されていた。時代設定も昭和初期から中期にかけてだというし、どうも今までにあった「日本らしいけれども疑似西洋」的な設定ではなく、ベタに「昭和の日本」なのだ。もちろん今までも純和風の田園風景が広がる山村が舞台の「合い言葉は勇気」などもあったのだが、あれは現代に取り残された片田舎であったし、時代設定を明確に打ち出したのは、『新撰組!!』くらいじゃないか?

しかも、実際にドラマを見だすと、「これは少々危険な代物じゃないか?」という気もしてきた。それも、これまでの三谷作品にはない、ある種の危険さだ。これについての詳細は後述する。


そんなこんなで僕は、放映以前には三谷幸喜がこの作品でいったい何がしたかったのか、それがわからなかった。


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そんな『わが家の歴史』なのだけれど、途中で気がついた人も多いのではないか。実はこれ、「和製フォレスト・ガンプ」だったのだ。というわけでこのドラマも、やはり三谷作品の「和製○○」の系譜に、まったく問題なく収まる。このドラマは「純日本」の風景を描いているようで、やはり西洋作品へのオマージュなのだ。


主要な類似点を挙げていこう。まず主人公となる「わが家」、八女家の面々はあくまで歴史上に名の刻まれることのない「無名」の一家である。そんな一家が、昭和初期から中期にかけての日本の「大きな物語」の潮流に、時に(ちょっぴり)影響したり、(ちょっぴり)影響されたりするというインタラクティブな関係性をたもちながら時代を下っていく。おまけに、歴史上に実在する有名人と、アっと驚く急接近が用意されている。ここはケネディ大統領にベトナム戦争の勲章をもらい、ジョン・レノンと「対談」をしたフォレスト・ガンプの姿を、すぐに思い出せるところだろう。


さらに人物設定においても、柴咲コウ演じる主人公の八女政子の息子、加藤清司郎演ずる八女実は知的障害を持ち、ドラマの終盤ではかけっこが得意なのかもしれないということが仄めかされている。これはフォレスト・ガンプの設定をなぞっていて、かの作品へのオマージュと考えてよいだろう。また細かいところをひとつ抜き出せば、ストリップ嬢の長澤まさみがステージ上でバスローブ(?)を脱ぎ落とす際の彼女の股の間から観客席を狙うカメラのアングルも実は、ガンプの少年時代のガールフレンドがストリップ小屋で働いている衝撃の場面に彼が出くわすシーンをまねている。一度っきりの視聴だったので、見返せばさらにオマージュが見つけられるかもしれない。


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ところで、「無名の人の自分語り」としてそこはかとなくアメリカ史を「挿入」するという「フォレスト・ガンプ」の手法というのは、考えてみればきわめて強い政治的メッセージを内包しているように思えてくる。そしてもちろん、そのことは、そのオマージュにあたる『わが家の歴史』にも当てはまることとなる。


フォレスト・ガンプ』も『わが家の歴史』も、無名の人が主役でありながら、同時代の事件や出来事、著名人がそこはかとなく登場する、という手法をとっているというのは先に確認した。それらの歴史的事実と、主人公たちは同期しているわけだ。キーワードは、その「同時代性」だ。



ベネディクト・アンダーソンという評論家のおっさんの本の中に、ナショナリズム論についての興味深い論考がある。


この人の議論の出発点は、「自分と縁もゆかりもない無名の兵隊の墓前で、なぜ人は哀悼の意を述べたくなるだろう?」というすごく具体的な疑問だ。これについて彼の論考は長々と続くのだけれど、出版資本主義など途中の議論をさっぴいて結論だけを抜き出すとアンダーソンは、物語によって語られる出来事とまた別の出来事を架橋する「同時代性」(meanwhile=「一方そのころ」という前置詞に象徴される)こそが、ナショナリズムをはじめとする「想像の共同体」の構築には不可欠だったのだ、という結論づけている。


彼の論考と照らし合わせてみると、『フォレスト・ガンプ』も『わが家の歴史』も、その応用問題にすぎなく思えてくる。要するに、『わが家の歴史』という極私的な物語を装っても、それは容易に「日本国家の歴史」に反転しておかしくない、というわけだ。そしてその場合の歴史とは、教科書なんかの無味乾燥とした語りとは比べものにならないくらい、「親密な雰囲気」を醸し出している「歴史」なわけだ。


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くわえていえば、こういった単線的な「物語」としての歴史語りは、ある根本的な欠点をはらむ。
実はこの『わが家の歴史』、地味ながらも「近代の矛盾」というのを活写している部分もある。
例えば政子は鬼塚大造(佐藤浩市)という起業家と結ばれるが、天海祐希演じる彼の妻の存在があるため、正妻にはなれない。しかし、結局彼の子を政子ははらみ出産する。その息子こそが先に挙げた実なのだが、当然彼は私生児扱いであり、政子は鬼塚の死後、その遺骨すら拾わせてもらえないという苦境に立たされる。
さらにその後、女手一つで実を育てなければならなくなった政子の苦境の場面には、さすがに名指しされることまではないが、「性役割分業」とか「母性愛幻想」といった近代的な問題を想起できる。このドラマは一見ハートウォーミングでありながら、そういった近代的な(イエではなく)「家」のシリアスな問題を、実は描いていたりする。


しかし、これらの作中に顕在してくる問題というのは、ドラマが終わっても実は解決していないことが、見ているとわかる。ドラマが全体としては最後に大団円を描くのだけれど、政子と実の母子の問題は、なんとなく解決したかのようでいて、根本的には何も解決しない。こういった単線的な物語上では、そういった個々の家の中で起きていたはずの「小さな物語」の「バグ」は、「大きな物語」の「ハッピーエンド」があまりににぎやかすぎて、どうしても相殺されてしまう運命にある。
もちろんこれは、単に三谷幸喜という作家の特徴であるとも考えられる。僕らは『振り返れば奴がいる』以降、彼の書く真の意味でのシリアスな作品というのを、未だ目にしていないのだから。


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ということが、僕が『わが家の歴史』を見ながら感じたある種の「危険」のあらましなのだけれど、下手にこういうことを書いて「はてサ」のレッテルを貼られたくはないし、大多数の人にはこういうことを書くと「そんな堅いこと言わんでも、これは娯楽じゃーん」と煙たがられそうだ。また、「同時代性」を実感して自分の共同体の成員としての自分を確認するのも、時には悪かないだろう。

それに、このドラマが一部の視聴者からナショナリスティックな読みを許してしまったって、その人たちには強烈な皮肉が待っているのだ。繰り返しになるが、この『わが家の歴史』は「和製フォレスト・ガンプ」であり、言い方を悪くすれば「二番煎じ」。そうなると畢竟、その中で浮かび上がってくる「日本の歴史」も…。


でも最近のナショナリズムって、嗤いながらでもできちゃうらしいしなぁ…。