http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090602/1243870343
この記事に対して、毎度のことながら賛否両論のブコメ模様。その中で少なからずある反応が、別にブクマは賛意じゃねーよ、という類のもの。ブクマ数と支持率とイコールでは結ばれているわけでないのだから、最もブクマをされた人がイコールはてなで「最も支持されているユーザー」、とはならない。確かにそれは正しい。
ただ、その批判はaurelianoさんの考えの核心をつけてはいないように思える。
なぜならそんなこと、aurelianoさんはおそらくきっと、折込済みだからだ。「それが釣りだ」といわれればそれまでだが、僕が思うに、aurelianoさんのブログに限らず、世に言う人気ブログとは意図的にか、無意識的にか、きわめて「テレビ的」に運営されているものなのだ。
僕らはテレビを、一方的に賛辞なんかしない。面白いことやってんなーと思うこともあれば、つまんないことやってんなーと思うことだってある。でも視てる。いや、「視てしまう」のだ。重要なのは、その視線が好意的なものであろうと、悪意的なものであろうとそれは関係ない、ということ。好悪の差異にかかわらず、どれだけの視聴者が部屋でそのチャンネルを視ているか(つけているか)、それだけが冷酷にも数値として表される。視聴率とは「たったそれだけ」のことでありしかし、テレビにとっては「たったそれだけ」の視聴率が重要であり、大問題なのだ。
その意味で、はてなにとってのはてブ数という指標は、テレビにとっての視聴率という指標と、きわめて近似している。そのことにおいて、この1年間で「最もはてなブックマークをつけられたはてなダイアリーユーザー」のaurelianoさんは率直にすごいと、僕は思う。
ただしかし、だからといってそれで、aurelianoさんのところに話を聞きにいくことがはてなの、そしてインターネットの将来にとって最善の策なのかといわれれば、そこには納得しがたいところがある。
ここで考えたいのは、組織や共同体の問題には、空間的にも認識的にも、構造内で解決できるそれと、構造外まで見渡さなければ解決できないそれの、二種類があるということ。まず、議論の遡上に上げられた梅田望夫のインタビューを眺める。
(引用者注−−日本のSNSは、人生に必要なインフラに)なってないんじゃないんですか? 職を探すとか……。人生のインフラ、学習、生計を立てる、キャリアを構築する、みたいな。
インターネット界にとって、そしてはてなにとって今最も重要な課題が、梅田氏のいうようなアメリカ型のネットのインフラ化であるとすれば(僕自身はそうは思っていないが)、それはつまり、水、ガス、電気のように老若男女のだれもがネットに接続できるようになることであり、課題になるのは「どうすれば今のパイをそれ以上に増やすことができるか」ということだ。この課題は、ネットの構造内にとどまるそれではなく、ネットの構造外にまでおよぶ「フロンティア」についてのそれである。
(引用者注−−ぼくははてなの)最も極まったユーザーというのが適当かも知れない。
aurelianoさんに誤謬があるとすれば、ずばりここだろう。aurelianoさんが被はてブ数などその他もろもろを鑑みても、はてなを「最も体現した存在」であり、「最も象徴的なユーザー」の一人であることを認めるのに、僕はやぶさかではない。しかし「極まった」という言葉が「極端」という意味であるならば、同意はできない。aurelianoさんは今、フロンティア(最先端)になんかいない。その正反対だ。セントラルにいるのだ。
開拓時代のアメリカにおいて、西へ西へ突き進むフロンティアスピリッツを体現したカウボーイは白人だけではなかった。実はその中にインディアンもいたということは、あまり知られていない。開拓者たちに住処を追われた彼らの一部は、そのころ低賃金で末端の力仕事であったカウボーイに従事せざるを得なかったのだ。皮肉なことに、アメリカ西部の国境とは、アメリカンでありかつ非アメリカンな人というきわめてマージナル(周縁的な)存在によって、拡大されていったわけだ。
それははてなだっていえよう。ネットそのものに閉塞感が漂っている今、はてなにはてなそのものの規模をさらに拡大していくという課題があったとして、その課題克服のためにお伺いを立てなければならないその「お伺いリスト」から真っ先に外れるのは、いわば「セントラル オブ はてな」、「最もはてな的なはてな市民」の人たちである。なぜなら、「既存のはてな市民でない人に訴えかけるにはどうすればいいか?」という問題は、少なくとも現行のはてなをはてなたらしめている象徴的な価値観では解けない、「非はてな的な問題」だからだ。そういう意味で、はてながフロンティアを開拓していく上で、「最も体現した存在」であり「最も象徴的なユーザー」の一人であるaurelianoさんはその問いの回答権から、実は最も離れたところの存在のひとつなのだ。
例えば、これは最近の例だが、ヤマグチノボルさんがぼくに会いにきてくれた。これは、ぼくのブログが自分を高めるための「インフラ」になったという恰好の事例ではないか?
ちがう。それは、aurelianoさんが「1年間で「最もはてなブックマークをつけられたはてなダイアリーユーザー」だからであり、「最も象徴的なユーザー」」だからだ。むしろ、ネット界でそのような特権的な地位にいたとしても、起こりうる出来事が「会社に作家が訪ねてきた」程度であるということは、日本でのネットのインフラ化がまだ進んでいない、ということの明瞭な証明になったともいえるのではないか。aurelianoさんから僕らが聞ける「ぼくからしか聞けない話」からひねり出せる教訓があるとすればそれは、あくまでは現行のはてなの「構造内」でその人が、自分のポピュラリティーを上げるために尽くせる方法にすぎない。いわばそれは、「(あわよくば)aurelianoさんみたいになれる方法」なのであって、梅田氏が論じている意味でのネットの「インフラ」とは程遠い。
aurelianoさんは確かにすごい。そのすごさとは先に書いたとおり、視聴率を獲得する人気番組のすごさであって、視聴率を獲得する力とはいってしまえば、「あらかじめ決められた数のパイの中から、どれだけ自分側に動員できるか」というゼロサムゲームに勝つ力のことだ。
一方で、テレビの視聴率が下降している。どの局が、ではない。どの局も、である。それは、視聴者というパイ全体が縮小傾向にあるからだ。もちろん今でもテレビは視ている。しかし「昔ほどか?」といえばうなずけない。僕らの生活の中で、テレビの価値が相対的に下落しているのだ。それはこれまで、数多の各テレビマンが挑んできた「あらかじめ決められた数のパイの中から、どれだけ自分側に動員できるか」という課題とは、実はちがう。「どのチャンネルを視るか」の選択と「テレビをつけるか否か」の選択は、似ているようでずいぶん異なっているのだ。「みんながテレビを視てくれる」という大前提が、もはや成り立たない。
視聴者というパイ自体が「減少する」という未曾有の状況に今、テレビは直面している。それはテレビの「脱インフラ化」であり、各局が人気タレントや人気作家をいくら投与しても、今のところそれを食い止める手立てはない*1。
視る人数自体を増やすという課題に、既存のテレビ的なテレビがまったく刃が立たないのと同じように、はてなの規模を拡大するという課題について、はてなという既存の枠組み内にあるaurelianoさんのテレビ的なブログから何か革新的なブレークスルーが起きるとは、僕は思えない。
おそらくかつての梅田さんは、ネット全体のイノベーションを「構造外」に一度出てから「与える側」として考えていた。
「顧客」として「構造内」にとどまり「もらう側」として考えているうちは、その構造全体が罹患する問題には対処はできない。
「ネットの将来」についてのインタビューの話が梅田さんのもとには未だに来て、aurelianoさんを始めとする多くのアルファブロガーのもとには未だに来ない理由は、両者のそんな立ち位置の違いにあるのかもしれない。
*1:ないにもかかわらず、今「地デジ化」というわけのわからんものが推し進められている。少なくともアナログ放送をやめるというのは狂っている。テレビがインフラ化した主な要因のひとつは、一部の局以外「タダで視れる」ということであったはず。にもかかわらず、今回のこの騒ぎは2011年7月までにいわば「ちょっと高い視聴料」を国民から巻き上げるものであり、今のテレビに「それでも視たいでしょ」という自信はありえないはず。脱インフラ化しつつあるテレビが、自ら進んでそれを促進しているかのようで、はなはだ理解に苦しむ