いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「あなたの気持ち…わかるよ」の二面性

ほんとにテレビを視なくなった。視なくなったのだけれど、ただつけていると時折、僕の網膜に印象的なシーンが飛び込んでくるため、見入ってしまう。画面では、佐野史郎が娘役の子の元に歩み寄った。一言二言、言葉を交わしたあと少女が突如、ぽつり。

「パパの気持ち…わかるよ」

この直後に佐野の顔が、あの「ニタリ」と音が聞こえてきそうなにやけ顔(おそらく本人の意図するところは微笑)に変わるのだけれど、ふと、このときあることを思った。

「あなたの気持ち…わかるよ」

このフレーズは、いろいろ考え出したら興味深い。「あなたの気持ち…わかるよ」の「わかる」とは、実は普段僕らが使う「わかる」(=理解する)とは少し違っている。実は僕らが「あなたの気持ち」を「わかる」を言う時たいてい、相手の気持ちなんてわかっていない。

いわば、「あなたの気持ち…わかるよ」という発言行為は、「わかりたい」という一種の願望のあらわれであって、相手の気持ちを本当に「わかる」という行為の完遂を、常に先回りしてそれはなされる。そして突きつめれば、「あなたの気持ち」なるものを他人が徹頭徹尾わかり得るはずがないのだから、「あなた」の気持ちを「わかる」という行為の完遂は、永久に先送りされることになる。
しかし、そうであっても「わかる」と言われて「あなた」の心休まるのは、発話者の「わかる」という発言によって、「あなた」の内面、「私」にとって絶対的に理解不可能なその内面を、発話者が理解しようとする「用意がある」という蓋然性が示されているからだ。
それは「賛意」ではない。相手の気持ちの内容がわからないのに、その内容に賛意することは不可能なことだ。そうではなく、「あなたの気持ちがわかった暁には、きっと私はあなたの気持ちに賛意するだろう」という、いわば仮契約がそこで結ばれるのだ。
だからこそ、僕らは「あなたの気持ち…わかるよ」と言われたとき、うれしくなる。ただし、的確な場所においてのそれならば。


その一方で、「私」の発した「あなたの気持ち…わかるよ」が「あなた」に対して牙をむく場合だってある。
ある不遇な境遇にいる「あなた」の中では、自分の気持ちを「他人にわかってしほしい」という欲求と、「他人にわかってたまるか」という相反する欲求が同居している場合があるからだ。「わかる」というのは、いってしまえば「私」から「あなた」への「接近」。そしてその接近は、「あなた」と「私」の間に引かれていた国境の無化、「あなた」の存在としての固有性を剥奪しようとしていると、「あなた」には思われかねない。「わかる」ことが「あなた」を侵略しているのだ。


この問題の解決するのは簡単だ。そこで、「私」が「あなたの気持ちをわかる」ことをやめればいい。「私」から「あなた」への越境を、あきらめればいい。だがしかし僕らの感情は、目の前に現れる「ある不遇な境遇にいる「あなた」」の気持ちを「わかってあげたい」、共感してあげたいという思いに苛まれる。その衝動は、理性的には止めることのできない代物だ。


かつて小学校時代にあっただろう。腹痛で苦しむ隣の席の田中君。苦痛にゆがむ彼の顔を見れば、ついつい「大丈夫?」とわかってあげたくなってしまうってのが人情ってもんだ。


あ、でも腹下した時はマジ他人には声かけないでほしかったな。