いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

昨日のフジの「たけしの教育白書」がすごく残念だった件―今のテレビの「テレビ的なダメさ」について―


例年は出ているはずの爆笑太田の不参加と、なによりも生放送でないということで端から期待していなかったが、なんとなくフジテレビの「たけしの教育白書」を見てしまった。


しかし見始めて知ったことに、なんとその番組には、僕が学部時代に一度か二度かはお世話になった教授が出演するというのだ。興味がわかないはずがない。期待しながらその方の出演時間を迎えたのだが、数分後、僕はその内容への落胆に肩を落とすことになる。僕は今年のこの番組に今のテレビの「テレビ的なダメさ」が象徴的に表れていると思ったので、備忘録的に書いてみることにする。





教授がそこで披露したのは、知られていないだけで数学の考え方が生活のいろいろな部分で使われているという話だった。簡単に説明すると、身の回りの、例えばブラジャーを使っての微積分、占いを使っての確率論の話などだった。


なによりもまずいえるのは、とりあげられかたが「浅すぎる」ということだ。学部時代に半期しか受けていない僕がいうのも変な話だが、放送された内容はその人の研究領域の「本質」ではない、ということだけはそんな僕にでもわかる。放送時間の問題ならしかたない。しかし番組を見ていると、話題が次から次へとより新鮮なものに移り変わっていっただけという印象がある。それなら扱うトピックをもっと絞り込むなどの工夫のしようもあったはずで、一つのトピックの持ち時間が短すぎるのだ。


そもそも身内というにはあまりにも遠く、また、たまたまその教授の授業を受ける機会があったからこそこのことに気がつけたのであって、その点では出演した他の教師や教授の人にだって同じことは言えるだろう。彼らの教え子や教えてもらった経験のある人にしてみても、昨日の番組は不満の残る制作と編集、放送の仕方だったのかもしれないのだ。





思うのは、この番組がアピールしようとした「学び」のおもしろさというのが、この番組を含む「テレビ」が常日頃追求しているおもしろさとは、本来あいいれないものだったのではないかということだ。

学問というのはもともと、即物的な、表層的なおもしろさ(興味)で長続きするといえば、なかなかそうともいえない。
卒論などを書いたことある人の多くが直面する悩みだと思うのだが、即物的に「なんかこれおもしろそう」と思って始めたキャッチーな研究テーマというのは、なかなか話が続かないことがある。一方、パッと見では地味に見えるが突き詰めていくとその領域の途方もなさに圧倒されて、主体的にというよりもどちらかというと引き込まれるように研究に没頭する類のテーマもある。


一方それにたいして、テレビで求められるのは即物的な、即効性のあるキャッチーなおもしろさだ。


これには、テレビの視聴率の測り方というものが「関数」としてはさまれているのかもしれない。
視聴率にはいわゆる「分計」というものがあり、一分ごとに結果が示されるという。60分番組なら60本の分計が並ぶのだ。作り手になったつもりで想像すると、平均視聴率ももちろん気にかかるが、それが分計の積み重ねによって出来上がるものである以上、結果的に目先の分計の数値を稼ぐためにパッと見で興味の弾くことができる、即物的でキャッチーなものをできるだけたくさん映そうという考えにひき寄せされるのも、無理からぬことだ。
まさにこれは先の微積の話で、微分がその地点での数値も大切であることはそうにちがいないが、積分的な全体の流れを加味してものごとを考えることが、なかなかしにくい構造ではある。





キャッチーといえば、昨日の番組では何よりも「ノーベル賞」がそれにあたるものだった。たけしと宮根誠司池上彰との四者対談に臨んだのが、先ごろノーベル賞を受賞した鈴木章だ。昨日の放送中にも幾度も氏が登場することが強調されていたので、おそらく昨日の目玉は彼の登場だったのだろう。


だが、結果的に言えばこの対談は徹底的につまらなかった。対談の冒頭、鈴木氏は学びは真似ることであると言うのだけれど、残念なことにそれはこの放送の前のコーナーにて流されたVTRで既出のネタであるし、次々に「それらしい」トピックが提出されて、それに対して四人がそりょそうだろねーとしか感想を述べようがない一般論をつらつらと取り留めもなく語り合うのだが、それは床屋漫談の域を出ない。それこそ同じことを床屋のおやじさんがお客の髪の毛をいじりながらしてもおかしくない話だったが、床屋のおやじさんがまったく同じ内容を話しても、お客さんはありがたがらないのだ。発言者がだれか、それが重要なのだから。


当然ここでは、権威主義的な日本人の気質ということについても考えることができるだろうが、これはなによりも「ノーベル賞」というコンテンツが、即物的な興味関心を引くうえで絶大なコンテンツになるということの証左なのだ。一方で、そんな鈴木さんがノーベル賞の何の部門を獲得したかという専門的な領域の話には、一歩とて踏み込まれることはなかった。


表層的で、脊髄反射的に飛びついてしまう程度のおもしろさを、悪い言い方をすれば「エサ」するならば、今の時代に子どもを教科書になんか向かわせることなんて無理だろう。まわりにはそれを提供してくれるゲームなりなんなりがいくらでもあるのだ。


皮肉なことに、昨日の放送でわかったのは、「テレビは教育について考えるのに向いてない」ただそれだけのことだった。





もう一点言いたいのは、ある意味さらに害悪なことかもしれない。


番組では最後、粘菌の研究でイグ・ノーベル賞を受賞した教授を紹介していた。
話はその研究者の子供のころに移る。なんでもその人は、子どものころに自分の名前が字で書けなったというが、彼の母やそんなことはたいして心配せず、彼が興味関心のあったことのびのびとやらせたんだそうだ。


ここで僕は、のびのびと育てることがよくない、またはそれを善きことのように放送することがまずいといいたいのではない。


僕はこの、なにかの分野での成功者(と目されている人)の生育環境にまで立ち返って、その育ち方に今の成功の足跡があるという話法、名づけるなら「伝記的話法」そのものに、気持ち悪いものを感じるのである。


あたかもそこでは、

〜〜〜によって育てられた →(ならば)成功者になった


という論理学の式が成立しているように思われているし、思わせようとされている。

「〜〜〜」に代入されるのは「スパルタ式の教育方針」でも、「のびのびとした教育方針」でもどちらでもいいのだ。今の「成功者」としての彼がそこにいるだけで、その教育法はなんでもいいのだ。


でも、この式そのものに問題がある。
本当にここで成立しているのは、

成功者になった →(ならば)自分の育てられ方をメディアで取りあげられる


という、至極あたりまえの自体でしかないのだ。


野口英世と同世代で、幼少のころに同じように手に大やけどを負ってしまったが、そのまま平凡な人生を送っていった人だっていくらでもいただろう。まったく同じような生育環境でもまったく同じように成功してくれるとは限らない。もちろんそういった教育方針だったからこその今の成功かもしれないが、それはもう確かめようがないことだ。





テレビは多くのありきたりなものより、希少な珍しいものにこそカメラを向ける。和田秀樹の卓越した表現を借りれば、テレビというのは「人を噛んだ犬」より「犬を噛んだ人」の方を映そうとするものなのだ。


でないと日本のニュースを見るかぎりどう考えても、性犯罪は警察官や教育者が率先して犯しているようにしか見えないではないか。もちろんそうではなくて、警察官である“にもかかわらず”、教育者である“にもかかわらず”そういった罪を犯してしまったからこそ、それが選択的に報道されているにすぎない。


子育てに完全無欠の正解なんてないだろう。そうすると、何を信じても最終的にはその親の勝手ということになるだろうけれど、それでもせめて、この「伝記的話法」への懐疑だけは頭に入れておいてほしいと僕は思うのだった。