ぼくはお笑いが好きだし、ラーメンが好きだ。基本的に、それらの全部が好きだ。あのころみたいに、何も考えずに、ただゲラゲラズルズルとその快楽に身を任せられる日がきてほしい。普通に美味いラーメンを食べながら、普通に美味いと言えないぼくは、そんなことを考えていた。
例えばギターなどの楽器を始めた中坊の頃に、それ以前はメインボーカルの「カラオケ」程度の認識であったバックバンドの演奏の聞こえ方が変わってくる。このバンドのベースとドラムは合ってる、あのバンドのは合ってない等々。気がつけば、となりの同級生のように「ここいい歌詞だよね〜」と素朴な「感想」が、吐けなくなっていたりする。
そのように世の中には、「知らなきゃよかった(無知であればよかった)」ということがある。そしてそれは決まって、もはや引き返せない不可逆性の途上にある(だからこそ後悔してるんだな)。
でもこの「知る」経験、批評眼を持つ経験というのは、はたして不可避的なものだったのだろうか。確かに、松本人志がお笑いに批評というものを持ち込んだそれ以降、「松本のように笑わせることはできなくても、松本のように芸人を評することならできる、あるいは、できるような気がする、できている気分になら浸れる、そんな視聴者を大量に生み出」されたのは事実だと思うが、それは事実全体の一面しか捉えていないのではないだろうか。重要なのは、松本の提示したお笑いを批評するというテレビの見方を、僕ら視聴者の側が嬉々として受け入れた、ということだ。というのも、テレビの見方の中でも批評的な見方というのはオルタナティブのひとつであって、松本の登場以降にだって「ただゲラゲラ笑っているだけの」見方はできたはずだからだ。しかし一部の視聴者はもはや、それでは満足できなかった。
もちろんそこには、松本固有のカリスマ性や彼の「かっこいいお笑い」の放つ魅力と、加えてそれを「かっこよく批評する俺」を夢想する側の選民意識が作用していなかったとは言い切れないが、それと同時に、お笑いをもっと緻密な視点から視たい、もっと緻密に語ってみたいという僕ら視聴者側のお笑いに向かう「執着」の在処もそこにみいだせるはずなのだ。
批評眼の成熟には、おそらくその対象への執着が不可避的に介在する。対象に執着するからこそ、そこに厳しさがこもる。
批評が「客観的な視点から対象を視、論評する」ということならば、批評眼が研磨されている人ほど、その対象への執着が深いということになる。そしてその執着の過多こそが、その人の批評眼の客観性を損じる可能性を秘めているのだから、批評とはきわめてパラドキシカルな営みであるわけだ。
なるほど、男が女に、女が男に厳しくなるのも、そして同時にあまあまになっちまうのも無理からぬことなわけで。