インターネットの普及で、誰でも情報を発信できる時代になった。視たテレビ、観た映画、聴いた音楽について、誰でも感想や批評を加え、さらにそれを公にできる時代になった。
「誰でも情報を発信できる」ということはつまり、作品の作り手側も批評に対して反論できる、ということをも意味する。
最近、ある投資家の人がアップしたあるマンガへの批判的な批評に、そのマンガ作者がご本人のブログにおいて反論する一幕があった。
今回だけでなく、以前にもあるラッパーがラジオである映画について批評した際に、その映画監督本人がブログで反論、という出来事があった。
今の時代ならではのできごとなのかもしれないし、こうした傾向をよしとする人も一定数いるようだ。
こういう出来事をみるにつけ、作品とその批評の関係について、もう一度考え直してみたくなる。
たとえ批判的な批評であっても、作品とその批評は敵対する関係にあるのだろうか。
ぼくには両者の関係がそのような固定的なものではなく、もっと有機的に絡み合っているように思えてならない。
まず大前提として、その作品がこの世界に存在しなければ、その批評は生まれえなかった。
これは当たり前のことだ。
しかし、このことには何度アンダーラインを引いても、引きすぎることはない。
批評は作品が存在しなければ生まれえない。
そういう意味で、作品とその批評は親子のような関係にあると思う。
「よい親」から「よい子」が生まれるとは限らないし、「ダメな親」から「ダメな子」が生まれるとは限らない。むしろ「ダメな親」から「よい子」が生まれてきた現場を、ぼくは何度も目撃している。
そして「よい親」であろうと「ダメな親」であろうと、「親」であることにかわりない。
くわえて「よい子」、つまり優れた作品批評というのは、対象作品の地平を超え、ぼくらにこの世界そのものへの理解を深めてくれることさえある。
そう、作品批評自体がまた一つの作品になりさえする。
しかし繰り返すと、そのような優れた批評も、親としての作品がなければ生まれることはなかった。
だからどんなにボロカスに貶そうと、批評とそれを書いた人には、その作品がこの世界に存在することに対する最低限の賛辞が含まれているだろうし、含まれるべきだ、とぼくは思う。
どんなに辛辣な批評でも、それは作品に対しての愛着の裏返し=「ツンデレ」にほかならない。
つまり、作品とその批評は、その存在そのものまで全否定する関係にあるわけではない。
批評が絶対的に敵対すべきことがありうるとすれば、それは同じテーマとする批評に対してのみだ。
では、作品と批評と、それから「作者本人による解説」。
この3つの中で、どれが一番邪魔者なのだろうか。
ここまで読んだ人はわかるかもしれないが、実は邪魔者は「作者本人による解説」だ。
ここで話はもどる。
作者自身が作品と別の場を設けて批評に反論するという傾向が増えている。
おもしろがっている人もいるけれど、ぼくはそれはあまり好ましい風潮には思えない。
何よりもそれは、作品自体を貶める行為にしかならないからだ。
たまに、インタビュアーが作家にその作品についてしゃべらせたら、酷い失望を覚えたことはないだろうか。
今回取り上げた「作者本人による反論」とも相通ずることであるが、これは論理的に説明がつくことだ。
作者は「直接的には説明できない何か」を作品という形で提示しているのだから、たとえ作者本人の発したものであろうと、それを「直接的に説明した言葉」がその作品自体に優ることは、ありえない。
言い換えれば、最初から言葉で直接的に説明できるようなことならば、その人はそれを作品にすることに何ら魅力を感じなかっただろう、ということだ。
ぼくは冒頭にあげた二つの作品ともに深い関心はもっていなかったけれど、もし自分の好きな作品の作者が、わざわざしゃしゃり出てきて、あれこれ解説を始めたら、それはかなりの失望を味わうだろうと予想している。
もし作者本人の作品についての解説が、ぼくの作品理解よりも劣っていたとしたら。
そのことほど作品への愛着をそぐ出来事はないだろう。