いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

闇サイト殺人という負のマルチチュード


名古屋闇サイト殺人は、言ってしまえばネグリ=ハートのいうところの「マルチチュード」の否定的な側面だと僕は思う。
ネグリ=ハートは『マルチチュード*1』の中で、権力が中央集権型からネットワーク型へ移行していく世界情勢に対応して、ネットワーク的な民衆(=マルチチュード)を形成することの必要性を説いた。人種、国籍、性別、民族、宗教といったあらゆる差違を互いに認め合いつつも、目的達成のために集う群衆、一言で説明するとそれがマルチチュードだ。
重要なのは、著者たちがそのネットワーク的群衆を形成するのにも、それに適した人材があるということを明確に示していた、ということだ。どういう人材かというと、主に第三次産業(サービス業)に従事する者、さらにその中でも情報や情動をネットワークを介してやりとりする職種に就いている人々だ。もともとは他者であった人同士をつなぐためには、コミュニケーションが必須なのだ。


ネグリ=ハートは最終的に「愛」という概念を持ち出す。愛と言わないまでも、ネットワーク上で善意と善意が偶然に出会い、その出会いからなにがしかが生まれるという可能性は、たしかに捨てきれないだろう。


しかし、ネットワークが誰のもとにも開かれた時代、ネット上に善意だけがころがっているわけではない。そして僕には、ネグリ=ハートが唱えるところの「マルチチュード」とは、ちょうどネガとポジの関係に今回の事件はあるのではないか、と思えてならない。犯人の三人は、みな無職だった。そしておそらく低所得者だったのだろう。「コミュニケーション」そのものが、「コミュニケーション能力」として社会で強迫的に求められている今の時代、コミュニケーションに長けた人が必然的に裕福になっていく中*2、彼らがコミュニケーション弱者であった可能性は否定できない。皮肉な話、今回の事件も三人のひとりで首謀者の川岸被告が、犯行後に自首したことをきっかけに事件は解決したというのも(「誰のおかげで解決できたのか」と、もはやどこから突っ込めばいいかわからないような発言をしているらしいが)、コミュニケーション弱者ならではの「意思疎通」の無さの証拠ではないか。もともと知り合いではなかった三人であるから、それは「もろいマルチチュード」とも言える。しかしそれでも、人一人をこの世から亡き者にした以上、そんな「弱いマルチチュード」が簡単に形成されてしまうことが、いいことのわけがないだろう。


ネット上では、「わずか一滴」でも、積もり積もって「大きな滝」になっていくという現実がある。それは善意も、そして悪意も然りだ。もしかしてこの犯罪は、彼らの「人から盗んじゃおうかな」というちょっとした思いつき、「悪意」が、不幸にもネット上で巡り会ってしまったという現象の最悪の形ではないか。そんなマルチチュードによって殺された方からすれば、たまったもんじゃないが。

*1:

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

マルチチュード 上 ~<帝国>時代の戦争と民主主義 (NHKブックス)

*2:最近読んだ本、

非モテ!―男性受難の時代 (文春新書)

非モテ!―男性受難の時代 (文春新書)