いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

苦労人・錦鯉に優勝もたらした『M-1』の気まぐれな“女神” 相反する2つの要素

 

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M-1グランプリ2021』王者・錦鯉

50代と40代のコンビの優勝という劇的な結末で幕を閉じた『M-1グランプリ2021』。

マヂカルラブリー優勝という驚がくの答えを出した昨年も偉そうに分析していたのだが、このとき書いた傾向は今年も継続し、より深化しているように感じる。

iincho.hatenablog.com

“終身名誉優勝候補”和牛が卒業した後の『M-1』は確実に、王者の漫才に文脈、つまり出場者固有の「生き様」や「ドラマ」、「物語」といった属人的な要素を欲する傾向にある。

 

今大会で審査員席に座ったナイツの塙宣之はかつて、その著書『言い訳』(集英社)で「よくできたネタ」の定義を下記のように述べていた。

 ちゃんとしたネタとは何かというのも難しいところですが、一つの定義として『他の人でも演じることができるネタ』と言うことはできるかもしれません。

 ハゲネタは、ハゲの人しかできません。チュートリアルの徳井(義実)さんやキングコングの西野君は、モテないネタはできません。だから、自虐ネタはフリートークだと言いたいのです。

 僕らは東京の寄席に毎日のように出演しています。東京の寄席は落語がメインなので、落語からも多くのことを学びました。

 落語家は同じ演目をいろんな人が演じます。それは話がよくできているからです。それをネタと言うのだと思います。

 もっとわかりやすい例で言うと、親が子どもに読み聞かせるような日本昔話もネタだと思います。話が完成しているので、誰が読み聞かせても子どもは喜びます。

 フリートークの時間に『桃太郎』の話をする人はいません。ネタとはそういうものです。漫才でも、桃太郎のようなよくできたネタを考えるべきなのです。

—『言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか (集英社新書)』塙宣之, 中村計著

では、今回優勝した錦鯉のネタはどうだろう。たとえば、20代の若手漫才師が彼らのネタをそっくりそのままかけてウケるとは考えにくい。第一、ネタの設定が50代の時点でつじつまが合わなくなってしまう。

そう考えると、塙がここでつづっている意味では、錦鯉のネタは「よくできたネタ」とは言えないかもしれない。そんな彼らが今回『M-1』を獲ったのだ。

 

しかし、ここでいいたいのは塙による定義が間違っているということでも、今回の『M-1』のレベルが低い、ということでもない。

「誰でも真似できるネタ」はたしかに塙のいうように古典落語のごとく時代を超えて受け継がれていくネタなのだろう。しかし、近年の『M-1』という舞台に限っては、その上に「ドラマ」「生き様」といった文脈を欲する傾向がある、ということだ。ネタのクオリティだけで優勝が決まるのが漫才ではない。それは、『M-1』が『N-1(ネター1)』でないゆえんだ。

 

また錦鯉が優勝したことは、今回の『M-1』で漫才の技術やネタの構成力が軽視されている、ということを意味しているわけではない。決勝10組の漫才が技術的、構成力的に高水準で伯仲しているからこそ、演じている人の「生き様」や「ドラマ」という要素が、「あとひと押し」となるのではないだろうか。

あの支離滅裂に見えたランジャタイのネタでさえ、ネタ中で一度出た「将棋ロボ」のくだりを後半でもう一度なぞってより大きな笑いを誘う。ネタ全体の構成がまったくのデタラメでは、決勝の舞台には上がれないということがよく分かる。

 

漫才師の「生き様」や「ドラマ」という属人的な文脈を欲する近年の『M-1』は、錦鯉のように苦節うん十年の苦労人漫才師に優しいように思えるが、それだけではない。この大会には、もう一つ、相反するような特徴が備わっている。

突然だが、下記が近年の『M-1』優勝コンビの出場回数だ。

2015年 トレンディエンジェル(決勝初進出 ※敗者復活枠から)

2016年 銀シャリ(決勝3回目 ※新生『M-1』では2回目)

2017年 とろサーモン(決勝初進出)

2018年 霜降り明星(決勝初進出)

2019年 ミルクボーイ(決勝初進出)

2020年 マヂカルラブリー(決勝2回目)

2021年 錦鯉(決勝2回目)

 

今年の錦鯉を入れて7大会の優勝コンビ中、4組が初進出でそのまま優勝。それ以外の3組も初進出から3回目までには優勝を果たしている。

さらに旧『M-1』(2001~2010年)までさかのぼってみても、優勝10組中5組が初出場で優勝し、4組が2回から3回目の決勝進出で優勝を果たしている。笑い飯の「9回出場して9度目で優勝」というのは、異例中の異例だ。

つまり、結成15年目まで出場可能な現行の『M-1』だが、優勝に限って言えば、「遅くても3回目まで」には決めなければ、漫才の女神は微笑んでくれないということになる。女神の後ろ髪はそんなに長くないのだ。

 

本稿の前半で書いてきたように、漫才師の「生き様」や「ドラマ」という属人的な要素をも込みで評価される傾向があるのが近年の『M-1』だ。しかし一方で、どれだけ苦節を重ねて何度も挑戦して、固有の「生き様」「ドラマ」を見せすぎても、漫才の女神にはそっぽを向かれてしまう。女神は飽き性なのだろうか。

この相反するように見える2つの要素が、来年以降の『M-1』でどんなドラマを巻き起こすのか。今から楽しみで仕方ない。

『水曜日のダウンタウン』“双子芸能人”の説 なぜ「怖い」と感じるのか

シャイニング 双子 フィギュア

先日、『テレビ千鳥』が優しさで巧妙に隠した悪意について書いた。

iincho.hatenablog.com

一方、“悪意”の表出とそのバリエーションにおいては、当代一と言われる『水曜日のダウンタウン』の15日放送回「ザ・たっちにもピンの仕事あるにはある説」もすごかった。

tver.jp

双子芸能人にピンでの需要はあるのか? という検証で、「幽体離脱ぅ~」でおなじみのたくやとかずやの双子からなるザ・たっちをはじめとする双子芸人、双子芸能人のピンの仕事の有無を検証。VTRの最中には、ザ・たっち2人がインタビューに答える模様も映された。

そして、双子の芸能人も実は意外とピンの仕事をしていた、というあまりトゲのない結論に落ち着きかけたところ、VTRの最後の最後に予想外の展開が待っていた。それは、ザ・たっちでインタビューを受けていたのは片方のたくやだけだったということ。番組は、たくやが一通り自分の受け答えするシーンを撮り終えた後、相方・かずやのいる“はず”の席に座り、かずやのフリをして質問に答えようとしているシーンを映していた。

つまり、ザ・たっちが2人でインタビューを受けているように見えた映像は、たくや一人を映して作った合成だったのだ。

 

「双子芸人にピンの仕事があるのか?」という検証VTR自体が、実は双子芸人のピン仕事だった、というきれいなオチが付いたように見えるが、スタジオの面々からは「怖い」という声が漏れていたし、SNSでも同様のコメントが多数寄せられていた。この説のオチは「怖い」のだ。

 

では、なぜ怖いのだろう。それはこの説の悪意が、ザ・たっちでも双子タレントでもなく、われわれ視聴者の側に向けられているからだ。

この説は、双子芸能人というものの存在価値をめぐる説であることは言うまでもない。まず、説のタイトルだ。「ザ・たっちにもピンの仕事あるにはある説」。「あるにはある」という表現が醸し出すように、この説には、番組側による双子芸能人に対しての「双子は似ている人間が2人そろってナンボで、2人そろってはじめて“商品価値”が生まれる」という、ある種の悪意がうっすら含まれているように思える。

しかし、説を検証していくと、実際はそんなことでもない、ということに気付かされる。双子は2人そろってなくてもそこそこ仕事はあるのだ。実際、双子芸人の漫才でも、双子をネタにしているコンビばかりではない。番組で紹介されたDr.ハインリッヒの漫才はほとんど自分たちのアイデンティティに関係ない唯一無二の世界観を演じいるし、昨年の『M-1グランプリ』敗者復活戦でダイタクが見せたネタは、ありがちな双子ネタの導入のフリをして、もっとクセが強い両親の話に延々と回帰してしまう、という双子であることを逆手に取ったネタだった。双子だからといって「双子であること」だけが商品価値ではない。

 

番組側が悪意を向けていた相手が「双子芸人」だったなら、「ピンの仕事があるにはあった」という結論は、おもしろくないもののように思える。

しかし、そこにきて番組が用意したのが「たくやが一人でザ・たっちを演じていた」というオチだ。

たくや一人でザ・たっちが演じても、そのことに気づく視聴者はほとんどいなかった。

 

そのことを意味するのは、たくやとかずや、それぞれに固有のアイデンティティがある人間であることを無意識のうちに忘れ、記号的に「同じ顔のニコイチの人間たち」というふうに解釈していたのは、番組側ではなく、実はわれわれの側だったということだ。

この説のオチで視聴者が「怖い」という感情を催すとすれば、それは「双子芸能人の価値を軽んじているのは、実はあなた自身なんだよ」と、自分は単なる傍観者だと油断して見ていたところで指をさされたからだ。

視聴者側が向き合いたくない“自分の嫌な部分”に、強制的に向き合わざるを得なくする悪意。つくづくこの番組は始末に負えない。

「青春の犠牲者」か?それともこれが「本当の青春」か? 男性ブランコが味わった“大学文系サークル”の闇

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キングオブコント2021』準優勝に続き『M-1グランプリ2021』でも準決勝進出 躍進が続く男性ブランコ

キングオブコント2021』で惜しくも準優勝、『M-1グランプリ2021』でも準決勝まで勝ち進んだ男性ブランコ。躍進する2人がニューヨークのYouTubeチャンネルで語っていたコンビ結成までの大学生活の話が面白かった。

2人の「大学生活」を語るときの口ぶりは、これまでポジティブにとらえられてきた「青春」の別の側面に光を当ててくれる。

 

www.youtube.com

浦井のりひろと平井まさあきが結成した男性ブランコ。2人の出会いは大学時代、進学した大学は別だったが、2つの大学にて合同で活動していた演劇サークルで知り合ったという。

1年生の前期4単位しか取れず… 激アツ演劇サークルの実態

浦井:僕はお芝居とかやりたいなあというので演劇サークルに入って、いきなり1回生の前期に、2時間のお芝居の主役を任されて

屋敷:浦井が!?

嶋佐:渋すぎるべ…

浦井:そっちにすごい集中しすぎて、(1回生の)前期4単位ぐらいしか取れなかったんですよ

嶋佐:うわっ

屋敷:一回の前期なんて50(単位)ぐらい取らんと

浦井:25単位なんですけど、理系だし取らないとやばい、みたいな

嶋佐:やばいな。だいぶ持ってったね比率

浦井:芝居の方に行き過ぎて

屋敷:めちゃくちゃ熱中してるやん!

「家族に逃げられた哀愁ただようお父さん」という2時間の芝居の主役に、齢18歳で大抜てきされた浦井。しかし、その活動はかなりハードだった模様…

平井:正直、演劇がメチャクチャしんどかったです

浦井:しんどかったです

平井:エグしんどかった…

屋敷:なにが?(笑)

浦井:平日毎日

平井:筋トレもするし

ニューヨーク:ええ!?

平井:ダッシュもするし

嶋佐:ダッシュ!?

平井:「感情解放」とか知ってます? 「ハイ、笑顔!」(って指示が飛ぶと)「わははは」って。面白くもないのに。

屋敷:はいはい。「ハイ、泣いて~」みたいな

平井:そう。しかもそれを真剣に。もうマジでおもんないじゃないですか?

屋敷:(笑)。あ、じゃあ激アツ演劇サークルや

平井:激アツやったよな

屋敷:マジですごいやん。1年で主役に抜てきされるなんて

浦井:それが分からない。なんで任されたんか分かんないですけど

平井:ホンマに、本番1週間前は「小屋入り期間」って言って、授業も出たらダメなんですよ

屋敷:あ~

嶋佐:うわ~

浦井:ま、今まで(講義に)全部出てたら1回ぐらい(出なくても)いいだろみたいな

屋敷:じゃあ数々のすごい人を輩出したりしてる名門とか、ではない?

平井:違います(即答)

屋敷:ああ、違うんや…(笑 うつむく)

浦井:熱意だけが先行型

嶋佐:青春の犠牲者じゃん

屋敷:尾崎(豊)の曲? 

一同:(笑)

ここで「青春の犠牲者」というワードを出した嶋佐のセンスがすごい。ムダでコスパの悪いことに偏執狂的に注力することを、逆説的に寿ぐ文化。人はそれを「青春」と呼ぶ。しかし、あまりに過剰に、日常生活に支障が来すレベルで「青春」に身を捧げることは、すでにもう「犠牲者」になっているのかもしれない。

これだけがんばったのに「幕が開いたら4人」の衝撃

平井:ホンマに悪く言うわけじゃないですけど、言いたいのは、そのときに大学生とかで、もしプロとかを目指すのであれば、俳優さんとか、絶対に切り替えをできるようにしたほうがいいと思います

屋敷 オンオフを?

平井:結構アツくなってる人って、普段から役に入ってるぐらいの人がいるんですよ

屋敷:マジで? 大学生で?

平井:はい。だからほんと、何見せられてるんや? ぐらいの。「バカヤロー! お前!(殴るジェスチャー)」パン みたいな

嶋佐:え、普段?

平井:ええ、芝居以外でダメ出しとかのときに「何やってんだよー! バーン!」(殴るジェスチャー

屋敷:ふははは。え、まじで?

嶋佐:やばいね。怖っ!

平井:「普通こんなんやる?」っていう

嶋佐:みんな様子がおかしかったんだ

屋敷:で、お芝居をやるの? 公演、1週間ぐらい

嶋佐:それってお客さんいるの?

浦井:これが、幕が開いたら4人とか

ニューヨーク:(笑)

浦井:それが、ショックというか、「辛っ!」って…

平井:これで「お客さんを入れることの大切さ」を知りました

屋敷:あー、なるほど、芸人になる前に。「なんなんこれは?」っていう

平井:その4人も、顧問の先生とか友達とか

屋敷:(笑)。めっちゃおもろいやん!

嶋佐:こうなってる(集中してる)から誰も気づいてないんだろうね。やってることのおかしさに

平井:告知っていうか…。(芝居の)クオリティをあげるっていうのは、もちろんなんですが…

屋敷 これおもろいな。これ『アメトーーク』でいけるんちゃう? 「大学演劇芸人」。 ゾフィーの上田(航平)さんとかもそうやん。

平井 これはちょっと言えますよ。結構食らったもんな

単位を犠牲にしてまでがんばったのに、わずか数人にしか観られなかった芝居。

これが体育会系の部活やサークルとのちがいだ。スポーツはパフォーマンスのことだけを考えればいい。客足が悪かろうが、それはマイナースポーツなら当たり前だし、なにより好成績や勝利、優勝という結果が自分を慰めてくれる。

一方、演劇の場合は、芝居の良し悪しとともに、いかに客(≒友人・知人)を動員するかにも頭のメモリを割かなければならない。いくらクオリティの高い芝居も、誰も観ていないなら「存在しない」ことと同じだ。

 

浦井は「開幕4人」のショックが大きく、最初の半期を持って演劇サークルから身を引く。一方、平井は文化祭でのコントはやり続けたいということで、引き続き籍を置き続けることに。しかし、平井は平井で新たな受難が待っていた。

演劇サークルを辞めてもさらに続く受難

平井:文化系サークルをまとめる役職みたいなのに就いて、辞められないっていうのもありました

屋敷:あーなるほど。実行委員長みたいな感じ?

平井:だから辞められないっていうのはありました

浦井:文化サークル長っていうのに

嶋佐:じゃあ、マイペースにやれたんだ。コントだけをやってた感じ?

平井:はい。そっち(演劇サークル)に関してはコントばっかりできててよかったんですけど…でも文化サークルが激しんどでした。週3回通って…

屋敷:何がしたいんおまえ(笑)大学おらんで 

浦井:(平井は)やりたくなかったんですよ!

平井:やりたくなかった!(笑)

屋敷:せめて就活に活かすとかやったら分かんねんけど

嶋佐:辞めなよそれも…。しんどかったら

前任者が飛んだことでやらざるを得なくなった役職に平井が苦しめられていた頃、演劇サークルを去った浦井も、脱線した大学生ライフを元の航路に修正することはできず。さらにさらに脱線していくことに…

屋敷:浦井は何してたん?(平井が)激動の大学生活してるときに

浦井:最初の4単位(しか取れなかったこと)が響きすぎて、全く勉強についていけなくなったんですよ。自分の大学に正直行かなくなったんですけど、高校生のときからアカペラバンドをやってて

屋敷:やってたな(笑)

浦井:そん時、一緒にやってた友達が同志社(大学)に進学して、同志社のアカペラサークルに入ってたんですよ

屋敷:同志社、有名やもんな。アカペラサークルいっぱいあるもんな

平井:もう300人ぐらい? 100人?

浦井:100人

屋敷:名門や

浦井:で、100人ぐらいいるけど、ベースがおらんと。だから「アカペラサークルに来てくれ」って言われて、僕、自分の大学には行かんと、同志社のサークルばっかり通ってました

屋敷:うわっ! 一番意味のないことを(笑) 本当の青春やってるやん。

で、卒業したん?

浦井:僕は中退しました

平井:僕は卒業しました

屋敷:ふははははっ 同志社のアカペラサークル行って…(笑)
嶋佐:どっちも散々な大学生活(笑)

浦井:(笑)ろくなことできなかった

屋敷:ほんとにヤバいな。浦井がヤバいやん。マジで

嶋佐:浦井がヤバいな

浦井は他大学の4つのアカペラサークルを掛け持ちしたすえに中退。

一方、平井の方も卒業はできたものの、在学中は、早朝の時給750円のコンビニバイトで糊口をしのぎ、大学に行くと文化系サークルの会議を開くというほぼ毎日のルーティンに嫌気が指していた。

平井:正直、僕、大学楽しくなかったですよ。結構しんどいことしかなかったです

屋敷:(笑)そんなやつおらん…。ブラック企業入ったやつみたいだ(笑)

平井:彼女おらんかったですし、毎日会議

屋敷:あっはっはっはっは! でも(普通は)それが楽しいからやんねんみんな

平井:マジで楽しくないですよ。周りの弁の立つ奴が「だり~よ」とか言ってるのをなだめて会議を始めたり

屋敷:課長みたいな顔してたんや

嶋佐:全然やりたくないのに

平井:全然やりたくないのに週3で

「本当の青春」とは「青春の犠牲者」になること

浦井は自分がベースとして携わっていたアカペラメンバーが次々就職を決めていく中、一人だけ就職が決まらず、大学も卒業できず。散々だったが、そのころ夜中のBSでラーメンズの単独公演を目撃。「こんなことができたらいいな」と思ったことを機にお笑いの道を志すことになり、紆余曲折を経て平井と合流することに。

 

コンビとして知名度が上がりつつある現在を結果としてとらえると、とてもポジティブに感じられてしまうが、平井がはっきり、しっかりと「大学楽しくなかったですよ。結構しんどいことしかなかったです」と言ったのが印象に残る。

2人が明かしたのは「青春」の語られない、語られるべき部分だ。「青春」とは、男女が集団で一斉にジャンプする写真や、海辺で『ONE PIECE』の片手を上げるポーズを真似した写真をSNSのヘッダーに設定することではない。

そんなキラキラした「青春」はほんの一握りで、きっと大部分の「青春」は、もっと辛くて、酷く、無意味で、コスパが悪く、惨めなはずなのだ。

「青春の犠牲者」か、それとも「本当の青春」か――そのどちらかではない。実は同じことなのだ。「本当の青春」とは、そんなふうに「青春の犠牲者」になることなんだと思う。

「漫才論争」という”愚問" 「こんなの◯◯じゃない」と叩くのが恥ずかしい理由

自分があまり詳しくないジャンルにおいて“未知のもの”を観たとき、人は二通りの反応をする。「こんなの○○じゃない」と拒絶するか、「こんな○○初めてだ」と驚くかだ。

 

もう来週に迫った今年の『M-1グランプリ』だが、昨年のマヂカルラブリー優勝の際、彼らの漫才をめぐってぼっ発した「漫才論争」は、まさに典型的な前者の反応と言えるだろう。

M-1グランプリ2020~漫才は止まらない! [DVD]

実際、「漫才じゃない」なんて大真面目に言っている人は、ヤフーコメント欄に常駐するおじさんおばさんぐらいで、マスコミが盛り上がりたいためだけに巻き起こした「エセ論争」だったのではないか、とさえ思う。そんな中、本職のお笑い芸人の中でほとんど唯一、「私はコントやと思う」と異を唱えたのがオセロ松嶋というのが彼女のエピソードとして100点であるが、それについてはここで深入りしない。

ほとんどのお笑い芸人がこの“論争”をとりあわなかったのは、それが「愚問」だからだろう。年に何百、何千と客前でネタを披露し、ほかの人の漫才も飽きるほど観てきたであろう彼らからしたら、取り上げるのも恥ずかしい論争なのだと思う(たぶん)。つまり、普段、漫才に見慣れてない人ほど、マヂラブの漫才に対して「漫才じゃない」と言いたくなったのではないだろうか。

 

新しいものに触れたときの反応の2つ目、「こんなの初めてだ」というのは、ぼく自身苦い思い出として心に刻んでいる。中学生のときに『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』を観たときは、まさに後者の反応をしたのだ。

ブレア・ウィッチ・プロジェクト (字幕版)

すごい! ドキュメンタリーを模したホラー映画! こんなの今までなかった! 革命だ! ぐらい感動したぼくなのだが、その後、調べれば調べるほど、同作の前に連綿と続くモキュメンタリーの歴史があることを知り、顔から火が出るほど恥ずかしかったのを覚えている。これで誰かに吹聴していたりしたら、さらに傷が深くなっていただろうが、言う前に気づけて本当によかった…。

その経験があって、ぼくは「こんなの初めて!」とセックスが上手い相手とめぐりあったときみたいなことは、簡単には言わないように気をつけるようになった。そういう意味では、『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』にはとても感謝している。

 

「こんな〇〇初めてだ」はまだ可愛げがあるが、「こんなの○○じゃない」は可愛げがない。というのも、前者には「初めて」という事実誤認はあっても、その○○に対する最低限の敬意とともに受け入れる姿勢が感じられる。しかし、後者は拒否反応と、ある種の「姑息さ」が垣間見られる。

「こんなの○○じゃない」という言い方は、発話者にまるでそのジャンルの守護者たる含蓄があるように演出する。しかし、その実、「○○じゃない」と決めているのは、得てして発話者の非論理的な感性に過ぎない。要するに口に合わなかっただけなのだ。

マヂラブの漫才が口に合わないのならば、口に合わないと言えばそれでいい。中にはつまらないと思う人だっているだろう。それがお笑いというものだ。問題は、「こんなの○○じゃない」という言い方が、自分の感性との齟齬ではなく、客観的な基準において判断できていると、発話者が発話者自身を騙していることだ。

 

あらゆるジャンル、文化は、漸次的にその定義の形を変容、拡張させながら発展していく人類の営為だ。誰もが最初、美術館に置いた便器を芸術作品なわけないだろと思っただろう。ダウンタウンはかつて、その漫才を横山やすしに「チンピラの立ち話やないか」と罵られた話は有名だが、今や彼らにそんなことを言う人はもうどこにもいない。

「こんなの○○じゃない」という言葉が頭の中で浮上したとき、改めるべきは「こんな○○」のほうじゃない。実は発した人の頭の中の方だ。

10代女子たちのバカンスと思いきや…“いま・ここ”に集中できない我々を風刺した映画『ひと夏の体験』

ひと夏の体験(字幕版)

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3人の女子高生(?)が、どこかの南国の浜辺にバカンスにでかけた様子を淡々と描く映画『ひと夏の体験』は、一見すると終盤までほとんど何も起きない、つまらない映画に思える。非日常的な場所を訪れ、開放的になったうら若き乙女たちが、乳をぶるんと出す姿など、“別の意味”で見るべきところがあるのだが、基本的にストーリーはつまらないように見えてしまう。

フィルマークスなどを覗いても酷評レビューが並ぶが、注意深く鑑賞していると、本作はある強烈なメッセージを内包している事がわかる。

 

晴れ渡る空の下、沖に浮かんだヨットの上でくつろぐ3人。始めは気づかないのだが、次第に分かってくるのが、3人の手には常にスマホ(うち一人は最初に海に落としてしまうが)、さらに会話の9割近くがSNSなど電子上のコミュニケーションの話題で占められているということ。こんなに青い空と青い海に囲まれ、素敵なロケーションに恵まれているのに! そのことに気づいてから注意深く見ていると、本作の作り手がそれを確信的にやっていることが伝わってくる。

 

どんなにきれいなロケーションでも、彼らの話題はどこまでもスマホの四角い画面の中のことだ。旅行に一緒には来ていない彼氏との仲違い、フォロワーが増えたことの喜び、ネット上の相手にいいように見られるために何度も撮り直す動画。そのどれもが、「いま、こんな素敵な場所でしなくてもいいことじゃないか」という強烈な違和感を催す。もちろん、その違和感は自分にも返ってくる。本作は、“いま・ここ”がどれだけ素晴らしい場所であっても、“いま・ここ”に集中できないカラダになってしまった、我々への風刺だ。

そうしたメッセージを含んだ映画は、もちろんこれまでにも無数に作られているが、本作のメッセージはまったく説教臭くないし、むしろ控えめで回りくどくすらある。気づかない人だっているだろう。しかし、伝わりにくい皮肉であるほど言われてしばらく経ったあとに気づいて衝撃を受けたり、意味が分かりづらいけど気づいた瞬間背筋がゾットする怖い話があるように、「伝わりづらいがゆえに伝わったときに強烈に伝わる作品」なのだ。

 

映画では、3人がスマホを肌見離さずに持っているが、観客からは、彼女たちがどんなサイトや動画を観ているかは分からない。スマホ画面はほとんど映らないのだ。きっと、1000年後の未来人がこの映画を観たら、「この3人の女性は四角い板を大事そうに抱えてどうしたというんだ」と奇異の目で見ることだろう。本作は、現代人が主観的にはもはや気づきにくい、現代で支配的になっている“奇妙な風習”、つまり、“いま・ここ”ではなくオンライン上の彼方を大事にする奇習をめぐる映画だ。

 

クライマックスでは、オンライン上でありがちなトラブルが起きて、ありがちな挫折を経験する3人。それは、本作が約70分かけて描いていたことの総決算のような気もする。“いま・ここ”に没頭してさえいれば、起きなかったトラブルなのだから。

ただ一方で、落ち込む3人を尻目に、スマホの中でどんな騒ぎになっているか知るよしもない観客に、映画は「所詮はスマホの中で起きた騒ぎだろ」と、どこか冷静に相対化できる視点を授けてくれる。以前、作家の筒井康隆も言っていた。炎上なんて「電源を抜いたら消えてしまう世界」のことなのだから。

『テレビ千鳥』料理企画に仕掛けた“美味しさで包んだ悪意”

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「誰も傷つけない笑い」がもてはやされる今の時代。テレビ番組の視聴者の鼻は敏感に「悪意」を嗅ぎつけ、どんな番組も「悪意」の取り扱い方を誤れば、ネット炎上する。

でも、お笑いと「悪意」は不可分だ。お笑い番組は必ずどこかで「悪意」のはけ口を探している。

そんな中、先週の『テレビ千鳥』が放送していた「カレー粉かけたら何でも旨いんじゃ!第二弾」が巧妙な「悪意」のはけ口を用意していた。

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別の企画でケンドーコバヤシが、枝豆にカレーをかける料理を作ったことをきっかけに生まれたこの企画。タイトルのとおり、呼び出されたお笑い芸人らの自慢の手料理にカレーをかけて試食するのだが、重要なのは、料理を作った張本人は「料理にカレーをかけられる」ということを事前には知らされていないということ。

作り手から料理のアピールポイント、こだわりなどを一通り聞いたあと、試食役の千鳥、ケンコバはいただきますをしたところで早速懐からカレー粉の瓶を取り出し、出された料理に大量にぶっかけ、美味い美味いと食べるのである。作った側のタレントは予期せぬ時代に驚き、呆れる。

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「あとでスタッフが美味しくいただきました」のテロップが示すとおり、現代において「料理の扱い方」ほど、視聴者を刺激するトピックもそうそうない。その中で、手料理を扱うこの企画は、巧妙な仕掛けが幾重にも張り巡らされている。

まず、「カレー粉を振ったことで料理が美味しくなる」というオチは、絶対的に揺るがない。料理において、「さらに美味しくなること」は、ほとんど誰も否定することができない絶対善なのだ。これは絶対に外すことはできない。これが実現できたのも、「カレー粉をかけたら何でも美味くなる」という、この番組が見つけた(のかは分からないが)「鉄の法則」の賜物だ。

千鳥やケンコバは、作り手の前で絶賛しながら料理に舌鼓を打つ。ただし、カレー粉をぶっかけ、完全にカレー味に染まった一品を。作った本人からしたら、喜んでいいのか喜ぶべきでないのか分からない。その複雑さが面白さを生む。

次に重要なのが、料理を作った側のタレントの反応だ。せっかく作った料理にカレー粉を振られたことに不平を漏らしていたものの、いざ自分でカレー粉入り料理を口にしてみると、「…美味しい…」と思わず口にする。

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ここまでの展開が、揺るがない一つのパッケージとなっているのは、料理が美味しくなることが絶対的な善だということを、作り手が熟知しているからだろう。

 

しかし、視聴者の中には、「料理の作り手が意図しない食べ方をされる光景」に眉をひそめる向きもあるかもしれない。世の中、繊細な人もいるものだ。それを知ってか知らずか、この番組はさらなる仕掛けを用意している。

ダメ押しとなるのは、料理を作らされる側のタレントに用意されるある“前提”だ。彼らは別の番組の企画で呼び出され、スタジオに入ったところで実はこれが『テレビ千鳥』で、料理を作ってほしいと頼まれる、というプチドッキリを仕掛けられている。

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そのあと作った料理にカレーをかけられるというメインのドッキリがあるため、この「別の番組だと思ったら『テレビ千鳥』だった」というプチドッキリは一見不要のように思える。現に、番組でも毎回この謎のドッキリの存在にひと笑い起きている。

しかし、不要のように思えるこのプチドッキリが、実は効果を発揮する。「急きょ料理を作らされるシチュエーション」ということは、つまり、事前に入念な準備をする間も与えられずに作った料理ということになる。丹精を込めて、何日も前から準備したわけではない。得意料理をぱぱっと軽く作らされるというシチュエーションであることによって、「作った後にカレー粉をかけられる事態」の悪意が少し軽量化されるのだ。

 

驚くべきことに、「人がせっかく作った料理の味にぞんざいにカレー粉をかけて味を変えてしまう」という最初にあった“悪意”が、このように何重にもコーティングを受けたことで、悪意と思えなくなってくる。

 

この企画が、悪意に敏感な現代の視聴者を意識して生み出されたかは分からない。面白くて変な企画を考えているうちに、たまたま生まれた可能性も捨てきれない。鳥が先か卵が先かはわからない。特に『テレビ千鳥』だ。時にどこに向かっているのか分からない、時にどういう感情を抱けばいいか分からない、前衛芸術のような、あるいはお笑い仙人が仕掛けてくる禅問答のような放送回もある。

そんな中、偶然にしろ必然にしろ、悪意を「美味しさ」でコーティングするこの企画は、現代の「悪意」に過敏な視聴者でさえカレーの匂いしか嗅ぎ取れない、見事な企画だった。

「もう限界やねん」M-1王者・銀シャリが喉から手が出るほど欲しているもの

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M-1グランプリ2016』王者・銀シャリ

へ~銀シャリってそんなこと思ってるんだあというのが面白かったのでブログで紹介しようと思いつつ、2ヶ月以上経ってしまった。銀シャリの2人がニューヨークのYouTubeに出たときのトーク

youtu.be

もっと華がほしい橋本 “女子高生に話題にされる芸人”になりたい鰻

橋本:なんかもっと…もっと出たいいっぱい。全然弾けてない、なんか…

屋敷:え?どういうことですか

橋本:くすぶってる感じやわ。もっとガーンって行きたい。もっとホント…評価されたい

屋敷:いやいやいや! 評価されてますって!

嶋佐:それはされてます

屋敷:橋本さんおかしいっすよ。橋本さんってやっぱなんつーんすか、欲深えっすね

橋本:なんか、なんかなあ…

屋敷:もう銀シャリさんなんか全て手に入れた人じゃないですか

鰻:いやいやいやいやいや、なんかなあ。なんやろなあ…旬になりたい。
屋敷:いや旬はもうやめましょう。もうムリっす
橋本:そんなつもりはないよ。俺ら銀シャリやから米、食卓に常に並ぶ
屋敷:いやいや並んでるじゃないですかもう
橋本:いやいや、並んでないよ~~~~~(しみじみ)
一同:(笑)

鰻:俺の中の判断基準が最近できてん。“女子高生が好きな芸人”ってなって。(今のところは)名前で「銀シャリ」って言ったらちょっと「渋いな」って思うやろ

屋敷:「なんで?」って思います

鰻:そうやろ? それを思わせたらアカンねん。「あ、銀シャリね?」って

橋本:共通の話題にならなあかんねん。

鰻:そういうふうになるとなんかあれやねん。俺の中で旬

嶋佐:たしかにそうっすね。当たり前のように

鰻:ニューヨークって言ったら、「ええなあ」ってなるもん今

橋本:華とか人気めっちゃほしい…

M-1グランプリ2016』で優勝し、漫才として名声は手に入れたはずの銀シャリ。しかし、本人たちは和牛、スーパーマラドーナとの大激戦の末、逃げ切ったこの戦いについて、圧倒的な勝利は感じていないよう。

天上人の悩みかと思ったら、人気だったんかい

屋敷:こんなこと言わんといてほしいですね。銀シャリさんには。中川家さんみたいな感じなんで俺ら的には。

橋本:嬉しい…

屋敷:華がないとか人気ほしいとか、言うてる感じじゃないんすよ俺らのなかで(笑)

橋本:華がないとか人気ないとか絶対言わんとこうなって思っててんずっと常に。…もう限界やねん

ニューヨーク:(爆笑)

橋本:言うていかんと。

(以前は)絶対自分で自分を蔑むのはやめようって、2人で言うててん。「おっさんやしな…」とか「人気ない」とか絶対言わんとこうって。でももうええやろニューヨークの前では

鰻:教えて

嶋佐:俺は、まさか銀シャリさんがそんな悩みを抱えてるなんて思ってなくて。ていうのは、『水曜日のダウンタウン』を見た時に、橋本さんがドッキリをかけられて、昔かけられたドッキリを覚えてるの? みたいな(「お前が歌うんかい!」のパターン、ツッコミ芸人ならどんな状況でも一発でツッコめる説 第2弾※橋本は1度目のリベンジ)。そのときにネタばらしの前に普通にお寿司屋さんのカウンターで「俺、何のための仕事してるのか分からへん。楽しない」みたいな。そっち系の悩みかと。あ、なんか分かるって。

屋敷:分かる分かる。天上人の悩みやろ

嶋佐:そう。『M-1』を獲って、バーって仕事もめちゃくちゃあって。でもこの先、何を目指していけばいいか分からない、みたいな悩みかと思ってたら…人気がほしいって、わけの分からんこと言い出して。

屋敷:(爆笑)

嶋佐:人気だったんかい!

屋敷:そんなわけないっすよ! 銀シャリさんが人気ほしいとか言うてるわけ

鰻:人気やねんほんとは

橋本:さらばの森田と仲いいやんか。またそんなこと言うてるねん。“クレオパトラの鼻が1ミリでも低かったら歴史は変わっていた”とか言うやんか? あの感じで橋本の顔がもう少し整ってたら…歴史変わってたと思うねん

ニューヨーク:(笑)

屋敷:森田さんとかと飲ましてもろたときも言うてましたね。「鰻の方がかわいいとか言われんの、ちゃうと思うやんな」みたいなことを(笑)

橋本:(笑)。俺、鰻も人気出てほしいのよ

鰻:解決したいねん。変えてほしいねん外見を

橋本:なんで俺、ニューヨークの前でめっちゃこんな言うてしまうん。今日もライブでどんどん引き出されてさあ。篠山紀信やと思うで

中川家さんみたい」という表現はよく分かる。職人的な立ち位置で、脇目も振らず、今後も俗世への未練を捨てて漫才道を邁進していくのかと思いきや、めちゃくちゃコテコテの俗欲があるじゃん! ということが発覚した銀シャリ

いまお笑い芸人はみんなオードリー若林になりたい

屋敷:銀シャリさんは舞台が、ずっと漫才もすごいじゃないですか

橋本:漫才はお客さんっていう答えがあるやん。暗黙の了解で、(その日)誰が一番ウケてたかとか。誰がエゲつなかったとか、ちょっとあるやん

屋敷:別個ってことっすか? 考え方として、いろんな項目がある中で漫才欲は満たされてってことですか?

橋本:なんか、わーっとかなりたい。配信とか「すげー」とかなんかなりたい…

ニューヨーク:(失笑)

橋本:なんか『日経エンタテイメント』とか載りたい

嶋佐:あ、じゃあ俺は『水曜日のダウンタウン』見てたときに勘違いしてたんですけど、人気出てもバンバン働きたいってことですか? 人気がないから、「今、なんのために働いているか分からない」ってことですか? 人気さえあれば今の状態でいいってことですか?

橋本:なんか…なんか…もっとコア的な雑誌で特集されたい…

ニューヨーク:(笑)

鰻:めっちゃ分かるわ。なんやろな、分かる分かる

橋本:あとなんか(元テレビ東京で『ゴッドタン』『あちこちオードリー』などを手掛ける)佐久間さんとか(テレビ朝日で『ロンドンハーツ』『アメトーーク』『テレビ千鳥』などを手掛ける)加地さんとかにもっと近づいてきてほしい

屋敷:ふはははは

嶋佐:(笑)

橋本:1回は「いま銀シャリがヤバない?」みたいなことになりたい

屋敷:「いま銀シャリヤバない?」はムズないですか? (すでに)チャンピオンで

鰻:いやいや、でもそれは確かに憧れあるなあ

橋本:こんなに喋ってて大丈夫なんかな。もういいよな。もうウソついてもしゃーないしな

嶋佐:じゃあほんとだ

屋敷:鰻さんもようおっしゃってますね

鰻:うん、なんか人気も、ワーキャーだけじゃなくてなんやろな…エンジニア人気って言うたらいいの?

屋敷:エンジニア?(笑) 絶対間違えました。なんすか? エンジニア人気って

橋本:クリエイターね? クリエイター

鰻:クリエイターみたいな感じの出方したいねん

屋敷:誰ですかねえ…?

橋本:たまにテレ東のドラマとかワンポイントで出たりとか。「あ、出てた橋本!」みたいに

屋敷:オードリーさんでいう若林さんが、note実はめっちゃ売れとるとか配信チケットがバカ売れしてるとか、あの感じ?

橋本:若林さんにみんななりたくない?

嶋佐:たしかに。若林さんちょっとズバ抜けてますね

橋本:今ゴッドっていうか。かっこよくて優しくて漫才もできてMCもできて若林さんの前ならふざけてしまうやん?

屋敷:はいはいはいはい

嶋佐:包容力があってほんと

橋本の口を付いて、次々と出てくる「コアな人気」への渇望とそれを象徴する具体例。「エンジニア人気」のところは鰻がしっかり鰻をしていて笑う。

「今の銀シャリ」を応援してくれている人にさみしい思いはさせたくない

橋本:ちょっとホンマ、見ぃ出してくれへんか?

屋敷:いやいやいや(笑) でもムズないですか? カリスマ、お茶の間の愛され度とか、あとめちゃめちゃおもしろいとかって意外とバランスあるじゃないですか?

嶋佐:分かれますよね

屋敷:例えばこの感じを『ゴッドタン』とかで“腐り芸人”みたいなことで「俺ら人気ほしいんすよ」とか言った場合、めっちゃハネると思うんですけど、もう二度とカリスマにはなれなくなるじゃないですか(笑)

橋本:申し訳ないけど、メチャくちゃ愛してくれている人がたくさんいらっしゃるわけやんか

屋敷:今の銀シャリさんをね

橋本:その方々に申し訳ないというか。目の前の人は全力で笑かして。

屋敷:それはほんとすごいと思います

橋本:なんか、今僕らを愛してくれている人がさみしい思いをしないような、頑張り方をしたい

屋敷:リニューアルがほしいってことですか

橋本:「(好きな芸人は)銀シャリです!」「好きなんです」って言えるような。

「腐り芸人セラピー」という劇薬はあるけど…それを使えないのは、「今の銀シャリ」を好いてくれているファンがいるからこそ。情けない悩み相談の最後は、メチャクチャかっこいい締めくくり。「超実力派なのに人気への色気を捨てきれていない」という銀シャリというコンビの新たな一面が垣間見えた回だった。