いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【書評】“地方育ちの東京人”の初期衝動を代弁してくれる蛭子さんのエッセイ『ひとりぼっちを笑うな』

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先日帰った地元。自宅周辺はまるで何も変わっていなかった…。

 

 

人の葬式で笑ってしまうことでお馴染み、終身名誉クズ人間こと漫画家の蛭子能収が、「ひとりぼっち」についてつづったエッセイ集。

全編、蛭子さんが頭をかきながら困ったような笑顔をしゃべっているいつもの感じが目に浮かぶようだった。

 

クズ人間とは書いたが、言っていることはぼくもほぼ同意してしまうから困ってしまう。やはりぼくもクズ人間なのだろう。

蛭子さんは人と群れるよりは独りでいるのが好きで、自分の自由が大切だからこそ、他人にも寛容でいたいという。まったくもって、ぼくもそのとおりなのである。

 

アマゾンレビューをのぞいてみても、好意的な声が並び、共感している人が多かった。

ただし、本書を単なる「生き方本」みたいに捉えるのはちょっと違う。

蛭子さんの考え方は、地方のしがらみから逃れてきた都市生活者にとって、むしろ当たり前だったんじゃないだろうか。

事実、蛭子さんはこう書いている。

 正直に言うと、僕が長崎から東京に出てきたのは、漫画家になるためではありませんでした。当時働いていた看板屋の仕事から、どうしても抜け出したかったんです。

 仕事は多少きつかったけれど、社長もよくしてくれたし、同僚にも恵まれていました。でも、このままずっとそこにいたら、どんどん自分の自由が奪われていくように感じたんですよ。その場所から抜け出して、とにかくもっと自由になりたかった。

p-118

 

 

自分の意思で東京に出てきた人の中には、蛭子さんと同じような気持ちだった人が少なくないと思う。そもそも「ひとりぼっち」=自由になりたいから都会にやってきたのである。

時が経ち過ぎてなのか、当たり前過ぎてなのか、そこんところはわからないけれど、そのことが忘れられている。

それが今になって、つながりが希薄だなんだと焦り始める。ぼくからすれば、「何を言ってんだ」である。

「都会ではお隣さんの名前すら知らない」って言うけれど、ではお隣さんのゴシップまで聞こえてきた地元が良かったのか? 極端な言い方をすれば、「孤独に死にたい」がために、あなたは都会にやって来たのではなかったか?

蛭子さんの本は、そんな忘れられがちな地方生まれの都市生活者の初期衝動を代弁してくれている。

 

ただ一点だけ、文句をつけたいことがある。

人の葬式では笑ってしまうのに、急死した前妻が大好きで、葬式で涙が止まらなくなっちゃったなんて書かれたら、クズ人間だなんて言えなくなっちゃうよ。そこだけはズルすぎる。

大阪桐蔭と金足農業の違いを考えていたら「スポーツっていいな」って結論になった話

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※フリー素材

 

大阪桐蔭高校が史上初の2度目の春夏連覇を成し遂げて終わった、100回目の夏の高校野球である。当方は、10代の勇姿をエアコンのキンキンに効いた部屋で観戦していた30代であるが。

決勝のカードが決まってから、いや、個人的な観測ではもっと前から、勝ち上がってくるこの対照的な二チームが話題に上がっていたと感じる。

一方は、全国から(といっても実は地元出身が多いけど)野球エリートが集った私立の超強豪校。もう一方は、地元出身の選手をそろえ、100年超ぶりに決勝に戻ってきた公立校。

その二校が勝ち上がってくるにつれ、「金足がんばれー」とか、「桐蔭を倒してくれー」みたいな声があれば、一方で「そんなの判官贔屓だ」なんていう人もいたり。中には、「大阪桐蔭の選手も頑張ってるんだ! ヒール扱いはよそう!」みたいな“優等生発言”も出てくる始末。

別に、どちらをどのように応援しようがその人の自由なのである。

 

 

それよりも、今回観ていてあらためて高校野球、そしてスポーツっていいなと思わざるを得ないのは、その公平性についてだ。

スポーツは公平が原則だ。

いくら私立校が練習環境に恵まれていようと、いくら公立校がそうでなかろうと、相まみえるグラウンドの上では(原則的に)公平だ。別に、高野連に多く金を積んだ方が10人でできるとか、ボールを同時に2個投げられるというルールはない(当たり前だ)。

サッカーだってそうだ。どんな金満クラブであっても、グラウンドに立てるのは相手と同じ11人である。同じ人間が競うことなのだから、その90分で何が起こるかわからない。だからこそ面白いのではないか。

 

さまざまな条件、道を通りながらいろんなチームがやってきて、同じ条件下のグラウンドで相まみえるからこそ、甲子園は面白いのである。

今回の決勝も観ていたら面白いほど戦い方が違った。金足農業は出塁すると送りバントで愚直に前の塁を狙うのに対して、大阪桐蔭は相手エース吉田くんの球をぶんぶん強振していくスタイルだ。

そんな風にスタイルは違うけれど、どちらも同じ「野球」なのだ。それが面白いではないか。ネオくん、藤原くんすごいなー、吉田くんがんばるなーとか言いながら、当方は室内でストロングゼロを飲みながら観戦していた30代であるが。

 

それとは別に、今回の決勝は投手の疲労度の差も大きかったのではないか、と感じた。吉田くんに投げさせすぎ。選手の健康のためにも、高野連はいい加減球数制限を設けるべきである。

球数制限があると継投が避けられなくなり、優秀なピッチング・スタッフが集まりやすい私立の強豪校がさらに有利になるという説もあるが、そうなったときは公立校勢が戦い方で知恵を出す番だろう。

 

間違っても、グラウンド上での公立校への優遇策などはあってはならない。高校野球が廃れていくのは多分そのときだ。

「会話のワンツーパス」を求めてくる人ってなんなの?

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「会話のワンツーパス」を求めてくるやつがウゼーという話で、最近友だちと盛り上がった。

 

例えば、AさんとBさんが雑談していたとする。Aさんが「最近、サモ・ハン・キンポーに興味があるんですよー」と話す。対するBさんは、実はサモ・ハン・キンポーに超詳しい。好きすぎて香港までサモハンに会いに行き、死亡説が流れた際には涙を流したほどだ。


そんなBさんの返しは「え、まじ? 俺、ソフト化されてるサモ・ハン出演作は全部持ってるよ! サモ・ハンについて教えてあげるよ!」が"正しい"ことになる。Aさんは「え、マジですか? ありがとうございます!」と感謝することだろう。

 

しかし、こうした会話は偶然の産物で「ない」ことが多々ある。Bさんがサモ・ハン・キンポーに詳しいのは、その界隈では有名な話なのである。Aさんも当然、Bさんがサモ・ハン・キンポーが詳しいのは知っていたのだ。

 

なのに、前段の会話でAさんはあえて、「サモハン・キンポーに興味がある」ことしか明かさない。Bさんから「教えてあげるよ」の言葉を引き出すまで……。

 

これが、ぼくの言う「会話のワンツーパス」を求められる時だ。


パスのワンツーとは、サッカーやバスケットボールなどで、Aが出したパスを受け取ったBが、ワンタッチでAが走り込んで来る場所に折り返すあれである。

Aが、「こう言うパス」というイメージ通りのパスが戻ってくるのを期待しながらBへ出すパス。そんなパスと似ているのが、「会話でのワンツーパス」のことだ。

 

サッカーやバスケなら、AとBは勝利という目的を共有しているからいいだろう。

しかし、ぼくらのやっているのはただの雑談だ。別に同じゴールを目指して共闘しているわけではない。いや、「ワン」のパスを出すAには明確な「ゴール」があるかもしれないが、こっちはそんなゴール知るよしもないのだ。

 

「今日は暑いですね」「暑いですね〜」ぐらいの「ワンツー」ならまだいい。会話の空白を埋めるためのもので、深い意味はない。
ここでターゲットにしているのは、「サモ・ハン・キンポー」の例のように「特定の誰かを狙い撃ちし、かつ、『こう言うパスを返して欲しい』という期待が見え見えのパス」のことである。

 

どうして、Aさんみたいな人は素直に「Bさんってサモ・ハン・キンポーに詳しいんですよね? 色々教えてください!」みたいに言えないのだろう、と本気で疑問に思う。回りくどいAさんにも、そして相手の狙いを忖度して「ツー」のパスを返してしまうBさん(あるいはぼくだ)にも腹が立ってくる。

 

だから、「会話のワンツー」を成立させるのが癪に触るから、最近ぼくなどは「ワンツー狙い」のパスが来ても無視して触らなかったり、明後日の方向に思いっきり蹴ってやったりする。サッカーでそれをやったら監督はカンカンだろうし、サポーターからは罵詈雑言だろうが、そんなの知るか。

 

ただ、そうしたワンツーを期待したパスが来たことに気づいてしまった時点で、受け手のぼくらは負けなのだ。そのパスを丁寧に返して「ワンツー」を成立させても、意地悪であえて成立させなかったとしても、相手について考えさせられている時点で、我らは貴重な人生のロスタイムは消耗しているのだ。

 

人生のゲームは、常に忖度する側の負けなのだ。ああ無念。

【書評】(当時の)スター批評家二人が考える「批評の意味って何?」 東浩紀×大塚英志『リアルのゆくえ』

 

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

リアルのゆくえ──おたく オタクはどう生きるか (講談社現代新書)

 

 

新旧のおたく/オタク批評家の中でいえば、(2009年当時の)ネームバリューではおそらくトップクラスの東浩紀大塚英志の二人が、2001年、2002年、2007年、2008年と不定期に行った対談集。

 

動ポモ2(東著『ゲーム的リアリズムの誕生 ~動物化するポストモダン2~』)を読めばわかるが、東は大塚の批評や理論に多分にインスパイアーされている。がしかし、この本では二人の考え方の違いが露骨に現れている。

 

自称「戦後民主主義者」の大塚が、東に対してくどいほど繰り返して問うのは、「批評家の責任」と「公共性」(いわば万人共通の“リアル”)。要するに、近代文学とその批評によって形作られてきた社会の公共性が崩壊した現代において、新しい形の公共性を構築することが、批評家とその書くものに課された責務ではないのか、ということだ。新しい世代の批評家の怠惰に対し、大塚のその疑問とも怒りともつけがたい感情が、おそらく世代きっての論者である東にもろにぶつけられる。


しかし大塚に対して東は、ここまで島宇宙化が進んだ現代ではそんなことは不可能だとやんわりとかわし、これからは公共性に代わり、どうすればリソースが均等に再配分されるかという技術的、システム的な問題になるだろう予期する。批評にはもうリアルを構築する力はないと言い切るのだ。すると今度は、大塚がじゃあなんで批評するの?と食ってかかるのだが、東は「友達を増やしたいから」と返す。

 

その後も二人は手を代え品を代え、同じような問答を繰り返す。大塚がたびたび、「ここで対談を終わらせてもいい」と言って東を挑発するが、本当にそこで対談は終わってよかったりする。繰り返しているだけなのだから。

 

ところで、この対談集自体は、近代的なのだろうか? ポストモダン的なのだろうか?
近頃のお互いを褒め称えるだけの生ぬるい他の対談集に比べれば、ずっと闘争的でありその意味では近代的である。

 

しかし、互いの話が通じていないという意味では、そして、無駄に長々と量だけがかさばる本になったという意味では、ポストモダン的でもある。

 

※例によって、過去のレビューを整形した上での再掲載である。最近、1200件を超えていたアマゾンレビューが謎の大量粛清にあい、3件にまで減ってしまった。上記レビューも削除されたものの一つ。レビューはあくまでも当時のぼくの「読んだ感想」であって、必ずしも現在の心境や、現在の状況を反映しているわけではないが、Gmailの底で下書きとして反永久的に眠らせておくのは、創造主としてあまりに忍びなく、ここに再掲する。

【書評】「ブス」はいかにして生きるべきか 漫画家×哲学者がガチ対談『不美人論』

 

不美人論

不美人論

 

 

女の眼前には生まれたときから、二つの「道」が横たわっている。美人の道とブスの道である。どちらを歩むかは、はっきりいって天と地ほどの差がある。本書は「ブス」と自認するマンガ家・藤野美奈子と、哲学者西研の対談。ただ、出倉さんという編集者が西氏の存在をかき消すぐらい全面に出て活躍している箇所もあり、鼎談と表現してもいいかもしれない。

 
自称「ブス」の女子二人が、これまでの人生がブスであるがゆえにいかに不遇であったか、そのエピソードを時に笑いあり時に涙ありで西研に吐露していく。それに対して西氏が優しく「哲学的考察」をほどこしたり、自分の子供時代、大学時代の男の側の経験も開陳したりしていく、という構成だ。
 
ブスに生まれてしまったら、下手にブリっ子もできないし、合コンでも相手にされない。就職は不利だし、男の子には「勃たない」と言われてしまう始末。踏んだり蹴ったりなわけである。それはフェミニズムだけでは解決されない問題だ。「美醜で差別するな!」は政治的には「正しい」けれど、「正しい」から男のアソコが勃つわけではない。「人権」や「平等」というロジックでは、美醜の問題すべてが解決することはできないのだ。
 
ではどうするか。本書の提示する処方箋は、いわば「自分をもっと愛しなさい」ということ。ただしそれは、盲目的に自分の世界だけに閉じこもることではない(それはこの本の中でも「ブリっ子」で痛いと批判されている)。
 
 
そうではなく、自分がブスだということをはっきりと自覚した上で、もっと愛されたい、もっとかわいいと思われたいと努力することである。そうすることで、自分がブスだという事実を距離をとって見つめることができるのだ。何よりそのことは、たぶんかつては深刻に悩んでいたことを本書の中で面白おかしく話してくれた藤野さんが、魅力的であるし、ステキな女性であるということによって、体現されている。

【書評】セックスエリート気取りの金融×学系男子は加藤鷹著『エリートセックス』を読んで恥じて、そして逝け!

 

エリートセックス (幻冬舎新書)

エリートセックス (幻冬舎新書)

 

 

6000人である。年間の自殺者の数ではない。我らがザ・セックス・マスター、AV男優の加藤鷹が、これまで抱いてきた女の数だ(初版が2007年であり、今ではさらに人数が増えているはずだ)。本書は、これまでにも数冊の著作がある鷹さんが、幻冬舎新書のために書き下ろした新作。あとがきによれば、この出版の前年に愛車が運転中に原因不明の爆発炎上を起こしたという。人生の節目に大きな交通事故に巻き込まれるという著者(お祓いに行った方がいいと思う)は、本書もその節目の本と位置付けている。

 

読んでみると、本書のタイトルでもある「エリートセックス」とは、きわめてアイロニカル(分裂した)な概念であることがわかる。鷹さんに言わせれば、「自分はテクニシャンだ」という"エリート意識"をもつことはタブーであり、セックスにはいつも感じるまま、思うがままに臨め、という。いつまでも初心を忘れず女の子に「セックスをさせてもらっている」意識で下手に出ながらことに臨むのが、彼の言う「エリートセックス」なのだ。

 

だから、6000人斬りの鷹さんが斬って捨てるのは、自分がテクニシャンであると踏ん反り返る男、女に対して「イカさせてやっている」という上から目線でいる男だ。鷹さんに言わせれば、そうした者こそ実はセックスを下手であるという。たしかにそういうやつって、女性からの「痛い」とかいうフィードバックを無視してそう! ヒットレシオがどうとかほざきながら入れて出しゃいいと思ってるそこのお前だぞ、金融×学系男子!

 

ただ、「テクニックに走るな」というのはこの手のハウツー本ではよく見聞きする話で、ありふれている。この本の重要性は、そういった「考えるな。感じろ!」の教えに、AV男優界のリー先生からお墨付きをもらったところだろう。女の子にのしかかって腰振っておきゃいいと思い込んでいる金融×学系男子は、この本を読み、これまでのセックスを恥じ入り、自身のナニを切り落とすことを切に願う。その際、手持ちの藤×数希の著書を火にくべて暖をとることを忘れぬように。

【書評】ヤクザにストーカーに税務署に……風俗店長の濃厚な日々『「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌』

 

「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌

「お客さん、こーゆーとこ初めて?」艶街経営日誌

 

 

風俗嬢に関するレポートは数多くあるが、その多くがジャーナリストと名乗る人によるもので、精神的、物理的に対象にどんな接近しようと、所詮は外側からのものである。

本書は、性風俗産業にこれでもかというくらい接近した場所から書いている。なにしろ、風俗店に勤め、店長を任され、店の脱税にまで加担した男による著作なのである。赤澤竜也による本書『お客さん、こーゆーとこ初めて?』は、風俗店の店長をまかされた著者が、風俗嬢やお客、経営感覚の狂った経営者や、しのぎをたかるヤクザ、なにかと処罰しようとする警察らとの濃密な日々を書いた一種のルポタージュだ。

絶対にご法度とされている「本番」をやったやってないで繰り広げられる人気店員との口論、人気の人妻風俗嬢につきまとうストーカー客の追及、税務署との緊迫した攻防まで、優良な企業では考えられないようなさまざまなエピソードがちりばめられている。書かれてある内容自体が風俗に疎い読者にとっては物珍しいが、関西育ちで培ったのだろう著者のお笑いセンスと、さすが慶応仏文学科(!!)卒というエスプリが効いた軽妙な文章は、それ抜きにしても読みごたえある。

バカ話もさることながら、「なぜ売春業が疎まれるか」という問題の本質を射抜いた文章も鋭い。著者は一時、風俗店の「近代化」に挑戦し、挫折したという。風俗を取り締まる法律はあいまいで、官憲側が生殺与奪をにぎっている。著者はそこに、人間の性という業を癒やすための性風俗産業を温存させながら、「見えないところで細々とやって欲しい」と囲い込もうとする、市民社会の欺瞞を嗅ぎ取る。

 

さっきまで笑いながらページをめくっていたのに、いつのまにか眉間にしわを寄せて唸ってしまっている、そんな不思議な味わいの一冊。