「会話のワンツーパス」を求めてくるやつがウゼーという話で、最近友だちと盛り上がった。
例えば、AさんとBさんが雑談していたとする。Aさんが「最近、サモ・ハン・キンポーに興味があるんですよー」と話す。対するBさんは、実はサモ・ハン・キンポーに超詳しい。好きすぎて香港までサモハンに会いに行き、死亡説が流れた際には涙を流したほどだ。
そんなBさんの返しは「え、まじ? 俺、ソフト化されてるサモ・ハン出演作は全部持ってるよ! サモ・ハンについて教えてあげるよ!」が"正しい"ことになる。Aさんは「え、マジですか? ありがとうございます!」と感謝することだろう。
しかし、こうした会話は偶然の産物で「ない」ことが多々ある。Bさんがサモ・ハン・キンポーに詳しいのは、その界隈では有名な話なのである。Aさんも当然、Bさんがサモ・ハン・キンポーが詳しいのは知っていたのだ。
なのに、前段の会話でAさんはあえて、「サモハン・キンポーに興味がある」ことしか明かさない。Bさんから「教えてあげるよ」の言葉を引き出すまで……。
これが、ぼくの言う「会話のワンツーパス」を求められる時だ。
パスのワンツーとは、サッカーやバスケットボールなどで、Aが出したパスを受け取ったBが、ワンタッチでAが走り込んで来る場所に折り返すあれである。
Aが、「こう言うパス」というイメージ通りのパスが戻ってくるのを期待しながらBへ出すパス。そんなパスと似ているのが、「会話でのワンツーパス」のことだ。
サッカーやバスケなら、AとBは勝利という目的を共有しているからいいだろう。
しかし、ぼくらのやっているのはただの雑談だ。別に同じゴールを目指して共闘しているわけではない。いや、「ワン」のパスを出すAには明確な「ゴール」があるかもしれないが、こっちはそんなゴール知るよしもないのだ。
「今日は暑いですね」「暑いですね〜」ぐらいの「ワンツー」ならまだいい。会話の空白を埋めるためのもので、深い意味はない。
ここでターゲットにしているのは、「サモ・ハン・キンポー」の例のように「特定の誰かを狙い撃ちし、かつ、『こう言うパスを返して欲しい』という期待が見え見えのパス」のことである。
どうして、Aさんみたいな人は素直に「Bさんってサモ・ハン・キンポーに詳しいんですよね? 色々教えてください!」みたいに言えないのだろう、と本気で疑問に思う。回りくどいAさんにも、そして相手の狙いを忖度して「ツー」のパスを返してしまうBさん(あるいはぼくだ)にも腹が立ってくる。
だから、「会話のワンツー」を成立させるのが癪に触るから、最近ぼくなどは「ワンツー狙い」のパスが来ても無視して触らなかったり、明後日の方向に思いっきり蹴ってやったりする。サッカーでそれをやったら監督はカンカンだろうし、サポーターからは罵詈雑言だろうが、そんなの知るか。
ただ、そうしたワンツーを期待したパスが来たことに気づいてしまった時点で、受け手のぼくらは負けなのだ。そのパスを丁寧に返して「ワンツー」を成立させても、意地悪であえて成立させなかったとしても、相手について考えさせられている時点で、我らは貴重な人生のロスタイムは消耗しているのだ。
人生のゲームは、常に忖度する側の負けなのだ。ああ無念。