いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

引っ越し屋さんと修理業者さんとブルシット・ぼく

先日、ドラム式洗濯機の修理業者さんに来てもらった。

4年前に買った我がドラム式洗濯機。1、2年ぐらい前から、脱水のときに素人からしてもこれはただ事ではないという轟音を出し始め、ついに昨年末、脱水が全くできなくなってしまった。

電話して1週間。修理屋さんが1人でやってきた。しかし、我が洗濯機の自慢の轟音を聞かせるとすぐに彼は「これはただ事ではない」という顔をして帰っていった。どうやら中のドラム自体を替える必要があるらしく、後日、今度は2人がかりで来るとのこと。

これはえらく時間がかかりそうだと心配したが、数日後、2人で来た修理屋さんたちは手慣れた手付きであれよあれよという間に我がドラム式洗濯機を分解し、ドラムを取り替え元通り。わずか1時間弱ですべて終わらせ、颯爽と去っていった。我がドラム式は前のようにかすかな運転音を立てながら、今、ぼくの冬服を洗ってくれている。

ちなみに故障の原因は洗濯ものの量だったようで、業者さんが洗濯機のドラムのほんの底辺の方を手で指して示してくれたのはこの洗濯機の適切な洗濯量。その手の位置を見て、いつもドラムがパンパンになるまで詰め込んでいたことは口が裂けても言えなくなったけれど、「もう二度としません。すいませんでした」と謝る代わりに、ぼくは業者さんの助言を何度も相槌を打ちながら聞いていた。

 

という業者さんの話なのだけど、ドラム式洗濯機で、もう一つ思い出す業者さんがいる。引っ越し屋さんだ。

今の自室は3階にあるが、このドラム式洗濯機も引っ越し屋さんに3階まで運んできてもらったから今ここにあるわけだ。

ぼくからしても分かるのだが、このドラム式洗濯機は非人道的に重たい。本当に理不尽なくらいの重さだ。それはプロならばどうにかなるというようなレベルではなく、引っ越し屋さんが前後2人がかりで抱えながら部屋に入ってきてくれたときの姿は今でも忘れない。体格のいい男性2人が、青筋を立てて「人がこんな表情をしてはダメだ」という悲痛な顔をしながら、命が削られているような聞いたことのないうめき声をあげながら、我が新居に運び込んで来てくれたのだ。

洗濯機が所定の位置に収まった後、業者さんのプライドを傷つけるようで本当は言いたくなかったのだが、反射的に「なんかすいません…」と謝ってしまった。業者さんは「いや、これでもいつもよりは楽だったんで」と笑みを浮かべて返してくれた。もしかすると、いつもそういう風に言うことに決めているのかもしれない。

 

2つの業者さんのエピソードの点と点を線でつなぐのはドラム式洗濯機、なのだが、ぼくがこの2つを並べてしみじみと考えたのは「仕事」についてだ。

彼らの共通点は「ぼくを助けてくれた」ことだ。ぼくが必要としているところに、対価と引き換えにやってきて、ぼくを救ってくれた。ああ、なんと尊いのだろう。誰かのためになる仕事。

難民キャンプで井戸掘っているような人も同じ理由で尊敬はするのだけど、難民キャンプで井戸を掘っている最中の人にはなかなか会えない。ぼくにとって、間近で直撃するのが引っ越し屋さんや修理屋さんなのだ。


もちろんぼく自身も会社員をしている以上、何かの「ために」なっているから、今の席があるわけである。

しかし、ぼくのしているような仕事は、あくまでも「会社の利益追求のため」にあるのであり、本当に必要としている誰かのためになっているだとか、本質的に社会のためになっている、というような気分はあまりない。

やっている仕事がつまらないわけではない。やりがいを感じないわけでもない。楽しい瞬間だってある。

けれど、ドラムを換えてくれた人や、青筋を立てながら洗濯機を運んでくれた人など、「ためになる仕事」を前にしたとき、途端に、居心地の悪さを感じるのも事実なのである。

この前、ネット上のとあるアンケートに答えていたとき職業欄のプルダウンメニューに自分の職業に該当するものがなくて、「サービス業」を選んだ。すると、さらにそのサブカテゴリのプルダウンが出てきて、しかしそこにも自分の職業に当てはまるものがない。結果、「サービス業その他」を選択するしかなかった。あれと似た惨めさがある。

 

ぼくの仕事は本質的には「なくてもいい」仕事なのだ。たぶん、今ぼくが放り投げたとして、困るのは会社のごく一部の人間だけだ。

一方、引っ越し屋さんがある日突然、この世からいなくなったら、ドラム式洗濯機は各家の玄関先で立ち往生していることだろう。修理屋さんという概念がある日突然消失したら、各家庭の壊れたドラム式洗濯機はただ事ならぬ轟音をあげ続けることになるだろう。正真正銘の、なくてはならない仕事なのだ。

 

だからといって、ぼくがここまで長々と書いてきて言いたかったのは、「みんながみんな、人のためになる仕事に就くべきだ」なんて大それたことではない。

近年では、ぼくがいう「人のためにならない仕事」を「ブルシット・ジョブ(意味のないクソ仕事)」というらしい。ブルシット(これたぶん、映画の登場人物とかがつく「ボーシット」って悪態だよね?)とは牛のフンのこと。なんとも手厳しい表現なのだが、悔しいかな反論できないぐらい的確ではないか。

 

この本によると、日本だけでなく世界中でホワイトカラーの「意味のないクソ仕事」が増えているんだそうだ。

まだ書評や著者のインタビューしか読んでおらず、原典はまだ読んでいないのだけど、どうやらこうした「ブルシット・ジョブ」が増えている原因の分析をしている本のようだ。

 

たぶん、ぼくが言いたいのはその先だ。現にブルシット・ジョブに就いている人宛に。

ここで厚顔無恥なるぼくがいいたいのは、「人のためにならない仕事」に対してのネガティブなことではない。そうではなく、「人に求められてはいない仕事だけれど、ここまでバレずによくやってこれたよな」「むしろ、人のためになってないのに、めげずによくやっているよ」「このままバレないようにやりつづけ、そのまま逃げ切ろうぜ」ということなのだ。ぼくたちは、まんまと、したたかに、これまでブルシットなりにブルシットしてこれているじゃないか。そうやって、お互いを励まし合いたいのだ。

卑下も自己嫌悪も必要ない。ブルシット・ジョブだ? 上等上等。よくもまあ、こんな誰とでも交換可能なスキルでそこそこやれているよな。危なっかしいキャリアパスだな。でもまあ、運も実力のうちだしな。うん。と、胸を張って生きていこう。

 

ぼくが言いたいのは、そういうことである。