いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「友達だと思ってたのに」とフラれる誠実なミッキー■ウスたちへの処方箋

今日こういうツイートを見た。

「モテる男性は下心を小出しにするので3回目のデートで告白しても驚かれずスムーズに付き合える」
「誠実な男性は下心をひた隠しにするので、ずっと友達友達…→実は好き!の流れで相手を驚かせ、伝家の宝刀『友達だと思ってたのに』で振られる」

togetter.com

 

このブログの古参読者なら「ああ、ダーイマの言っていたアレだな」とわかってもらえるだろう。

 

ブロガーのトイアンナの著書からの引用なのだそうだが、拙ブログで言うところの「おっきした■ッキーマウスが迫ってきたらさすがに怖いだろ理論」とほぼ同じである。

みんなの人気者ミ■キーであっても、あなた個人に猛々しい性欲を向けてきたら怖いだろう。そういうことだ。「楽しい人気者」ポジションに一度固定されてしまうと、いざ個人にアプローチをすると気持ち悪がられてしまうものだ。

 

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みんなの人気者になれるのはいいけれど…。

 

このブログは、そのように人気者なのにフラれておったったまま呆然と立ち尽くす哀れなミッ■ーマウスを一匹でも減らしたいという気持ちで立ち上げたのである。大嘘である。

 

理想はルパン、だけど危険すぎる

理想としては、不二子に対するルパンポジションが望ましい。下心ありますよとアピールにアピールを重ねてガッチリとポジションを固めてから、いざ心というとんでもないものを盗んでいきたいところである。

 

ただ、ルパンポジはかぎりなくリスクを伴う作戦だ。先のツイートのなかでも「下心を小出し」と出てきたが、なかなか難しい世の中になってきた。例のセクのハラというやつである。嫌われたら人生すら奪われかねない。

「下心を小出し」派と「下心をひた隠し」派の2タイプについては、前者と後者の「すみわけ」というよりもむしろ、前者がセクハラで訴えられて痛い目にあったか、前者で痛い目にあった人を見た結果、後者のタイプが生まれてきた可能性がある。

 

「ひた隠し」派の間違った発想

じゃあどうすりゃいいのよ、と、今まさにおったったまま呆然と立ち尽くすマウス諸君に問われたなら、ぼくならどう答えるか。

「下心」はここまで書いてきたようにリスキーだ。では、「『好意』の(行為の、では断じてない)小出し」というのはありではないか。「好意」までなら、なんとかお許し願えないものだろうか。

「好意」を小出しにするのには副産物もある。「相手が自分を好きになってくれる可能性」が高まるのだ。

「ひた隠し」派、おったったマウス派にありがちなのが、「自分のことを相手が好きでないなら即ゲームオーバー」という間違った発想である。

大体、会った瞬間にお前のことを好きでいるやつなんて100人に何人いるのだろう。「好きでないなら好きになるように仕向けろよ」というのが拙ブログの方針である。

自分に置き換えてみてほしい。特に気にも留めなかった異性に「好き」と言われたら、好きにならないまでもちょっと気になってくるだろう。もしかしたら、そこから「好きになる」パターンもあるかもしれないではないか。

  

「ひた隠し」派の間違った発想2

また、「ひた隠し」派おったったマウス派が陥りやすいのは、「3回デートに行きゃつきあえる」という、「成果報酬マインド」である。3回でゲージがたまるぞ、みたいな発想。

よくあるマニュアルに「3回目で告れ」みたいなのご出回っているが、そんなのに習って3回目と決めてかかっているなら相手に失礼だし、どうしてもデートが形式的になってしまう。

そんな「ひた隠し」派やマウス派にいいたいのは、常に「経過観察しろ」ということだ。相手が自分のことをどう思っているか。相手の中での自分の存在の位置を常に経過観察すべきであり、その結果、デートは1回いいだろうし、3回以上かかるかもしれない。とにもかくにも、相手はゲームでなく、自分と同じ血の通った人間であるのを認識すればいいのである。

 

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「好意」って何? どうやったら伝わるの?

じゃあ「好意」ってどうやって示せばいいんですか、というかそもそも「好意」って何? という当然の質問だが、こればっかりはわからん

好意を示すあなたのキャラクターにもよるだろうし、相手との現在の関係性にもよる。変数が多すぎるので、具体的にこうやってこうすれば好意は伝わる、とは断定できない。

一緒にいるだけで相手に好意が伝わる人もいれば、いちいち言葉にしないと伝わらない人もいるだろう。悲しいことだが、人間平等に生まれてきたわけでないのだらから仕方がない。

ただ一つ言えるのは、「好意」を伝えるとは「わたしはあなたといることで全部忘れてハッピーです」ということ、「あなたといると嫌なこと全部忘れらわれるし、一緒にいるだけで最高なんですいやマジで」を伝えることに他ならない。

そしてそれは何を隠そう、あなた自身が相手とのデートを最高に楽しむことである。もちろん、相手のリアクションにも配慮しながら、ではあるが。

今日のところは以上である。マウスたちの幸運を祈る。

女性お笑いコンビ・Aマッソがコントでぶつけた「絶望」

7日に放送された「ENGEIトライアウト」(フジテレビ)というネタ番組で偶然観た、お笑いコンビ・Aマッソのネタが衝撃的だった。

 

 

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ワタナベエンターテインメント公式プロフィールより。

 

女芸人がコントに込めたすさまじい「絶望」

村上愛加納愛子という女性2人からなるこのコンビ。番組で披露していたのは、加納が女教師、村上が女子生徒を演じる進路面談のコントだった。

 

途中までは、未来に何の希望も持てないという生徒に、教師が何か夢はないのかと尋ねる形で進行するが、後半に入り状況が一変する。

生徒が恐る恐る実はお笑い芸人になりたい、と打ち明けたところで一転、教師が急に冷めた調子で「やめとき」とつっぱねるのだ。

 

それまで教え子の夢は笑わないと言っていたはずの教師は、芸人になってコントや漫才をしたいという教え子に向かって、「女芸人、賞レースで勝たれへんねん。客8割、女やもん」と容赦ない現実を突きつける。

  

生徒が「Aマッソ」みたいになりたいといえば、教師は食い気味で「先生、あんな女芸人一番嫌いや、見方わからへんやんか」とぶった切る。

生徒が「人を笑かすのに男女とか関係ないやん!」と反論すれば、教師は「あんねん、『男女とか関係ない』とかいうの大体、女」ときっぱり。

生徒が「先生の考え方が古い!」と批判しても、「古くて結構。これが世論!」と身もふたもないことを言ってしまう。

そしてコントのオチ。現実をたたきつけられぼろぼろの生徒が、じゃあどうすれば芸人になれるのかと問うと、教師はそっけなく言い放つ。「知らん。太れば?」と。

 

ネタ中、観覧客(たぶん8割、女)の笑い声が聞こえていたのだが、彼女らははたしてこのコントの意味を正確に理解しているのか、疑いたくなる。

このコントは、Aマッソのただの自虐ネタではない。コントそのものはとても面白かったのだが、同時に、途中から傍観していたはずの自分が指をさされていることに気づき、ドキリとさせられる強烈なコントであった

 

「ゴッドタン」 で語っていた苦悩

Aマッソのコント中、どこかでこの人を見たと思ったのだが、「ゴッドタン」(テレビ東京)だと思い出した。

何を隠そうこのAマッソの加納が、2月に放送された「腐り芸人セラピー」において「女芸人はボケを求められていない」という悩みをぶちまけていたのだ。今回のコントはまさにこの悩みの延長線上にあるといっていい。

 

番組中、加納は「芸人」として認められたいが、女芸人は「デブとブスしか求められてない」と訴えた。2人とも見た目は「(デブとブスの)どっちでもない」「普通」というAマッソは、その枠にうまく入り込めない。

ほら、先のコントで女教師が言っていたではないか、デブでもブスでもないAマッソという女のコンビは、視聴者にとって「見方わからへん」のである。

 

番組では、彼女らの先輩にあたる劇団ひとりおぎやはぎら「男」芸人らが、売れるためなら男女の別にかぎらず多少の「キャラづくり」は必要だとアドバイスしていた。

もちろんそれもわかる。それもわかるのだけど、加納の語る「(女芸人は)デブとブスしか求められてない」現状は、果たして「キャラづくり」で解決できるのか。

「キャラづくり」は、芸人がその世界で生き残るために模索する差別化であるが、「デブとブスしか求められてない」女芸人は、おそらく差別化をするための余白が男性芸人のそれに比べれば猫の額ほど狭い。

 

このとき感じたのは、女性芸人は、もしかしたら男芸人には見えない「ガラスの天井」に苦しめられているのではないか、ということだ。

 

「ゴッドタン」で加納はさらに「女芸人って、誰が売れてんねん」とまで言ってみせた。ここで「売れる」というのは、性差なく「芸人」として真に認められているということだろう。そんな女性芸人がいまだかつていたのか、というのだ。

そして加納は同性の戦友たちに「どこのチャンスとってんねん、違う種目行くのはちゃうって」と、呼びかけるのだった。

 

この苦悩をコントとして昇華したのが先のネタと見て間違いない。

コントの中で教師はこう言う。

「女芸人がおもろなってきた」って言われるけどあんなん嘘やぞ! 

テンプレートが蔓延してるだけじゃい!

 

Aマッソの二人がキー局のネタ番組でぶつけたコントに込められているのは、「お笑い芸人」という肩書とは裏腹に、数限られたテンプレという「箱庭」の中でしか戦わせてもらえない女芸人の絶望である。

 

「女なのに」or「女だから」

「女と笑い」を考えるとき、いつもぼくが思い出すのは、岡本夏生である。

2010年代前半、「おかしなコスプレおばさん」として再ブレークを果たした彼女。「5時に夢中!」(TOKYO MX)の火曜日レギュラーとして、毎週のように奇抜なコスプレをし、ネットでもおおむね好意的な話題となっていた。

 

確かに岡本は面白かった。言っていることはわけわかんなかったし(そしてその後、笑えないヤバさをきわめていったのだが、ここでは割愛…)。

しかし、岡本で笑っている自分に対して、もう一人の自分はいつも疑問を持っていた。

はたしてこれは、岡本が「女だから」面白いのではないのか? と。

同じことを同世代のおっさんがやっていたとしても、面白いのだろうか?

もちろん、彼女の努力は並大抵のものではなかっただろうが、努力と面白さは必ずしも正比例しない。努力したって面白くない人はいる。

おそらく、岡本は、「女なのに」そうしたことをするから面白いのである。

 

「女なのに」するから面白い。一見それは、困難なハードルを乗り越えたといえるかもしれない。

ただ一方で、それは反転すると、「女なのに」のハードルを一度乗り越えさえすれば、簡単に笑えてしまうという「女だから」と同義ではないか。

つまり、「女なのに」という困難は、「女だから」という容易にいとも簡単に反転してしまう

結局、「女」という呪縛からは逃れられないのだ。

 

Aマッソが相対している強大な「相手」

女芸人だって男芸人と変わらない芸人であり、同じ物差しの上で評価してほしい。

その願いはもっともであるし、そうあるべきである。

ただ、その願いを恐ろしく困難させているのは、「笑い」というものが文化的なコードにかなり依存しているという点だ。

たとえば、ゲイのモノマネをして笑いになるならば、その文化圏ではゲイがまだ「珍しい」「奇妙」というコードが支配的であることを意味する。

この人たちはこういう風に笑ってもらいたいから、視聴者もその意図を汲んでそういう風に笑いなさい、という強制がいかにナンセンスで、なおかつ面白くないのは簡単に想像できるだろう。

 

女芸人が「お笑い芸人」ではなく、あくまで「女芸人」という特殊な囲いの中でしか扱われないということは、お笑い業界のせいではない。むしろ、それを受容するわれわれ、世論の側の問題であるのだ(これが世論!)。

Aマッソがフジテレビのネタ番組で披露した「絶望」は恐ろしく深いが、一方で、彼らが相対している相手もとてつもなく強大だ。

 

しかし、そんな状況もいつの日か変わるのかもしれない。

あとからすれば、あのコントが革命の「のろし」だった、といえるようになる日が来ればいいのだが…。

「めちゃイケ」最終回を観ながら思い浮かんだ意外な記憶とは……

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「めちゃ²イケてるッ!」が終わった。

 22年の歴史に幕を下ろした。

iincho.hatenablog.com

 

以前にも書いたようにぼくは、かなり前にファンであるのをやめたような状態だった。

かつては1分でも見逃してなるものかとテレビにかじつき、どうしてもリアルタイムで視聴できない場合はビデオに撮っていた。

それが次第に、録ったビデオがたまっていき、さらにビデオに録るのを忘れても大してがっくりしなくなり、完全に見なくなったのがここ数年。

以前書いたように、ぼくの心はすでにこの番組から離れていた。

もう何年もきちんとは観ていない。

そんな中で、恐る恐る見たのが最終回だった。

 

 

5時間半に及ぶ最終回を観ながらぼくは、見当違いでにもほどがあるが、元福岡ソフトバンクホークスの大エース、沢村賞投手の斉藤和巳氏の引退セレモニーを想起した。

 

斉藤は肩を怪我したあと、何年もリハビリに費やし、ついにはリハビリ担当コーチという特例の肩書になってまで球団内で復帰に向けて努力していた。

ファンも何年も待った。ファンからしても、斉藤は待つに値する選手だったのだ。途中でスザンヌとちゃっかり結婚したりしてたけど。

 

そんな斉藤が、ついに力尽きて引退を決断したのが2013年だった。

彼が久々にユニフォーム姿で公の場に姿を表したのが、全盛期にバッテリーを組んだ”釣り人”城島健司を従えてあらわれた引退セレモニー。

引退セレモニーでは、おそらく生涯最後となるユニフォーム姿でのピッチングを披露した。

全盛期の鬼神のごときピッチングを知っているものならば、他球団ファンであろうと注目したであろうその最後の一球。

ワインドアップで斉藤が放ったそれは、なんと城島のミットに届かなかったのだ。

 

youtu.be

パシフィックリーグ公式動画、4分ごろから)

 

数えて4球目にして、ようやく斉藤の球は城島のミットに収まった。

 

ぼくは、そのときのなんとも言えない感情になった。

斉藤の投球に、球場全体が温かい笑いに包まれたし、実際それは感動的だった。

しかし、やはり全盛期のあのピッチングを知っている者からすれば、ものがなしく、やるせない気持ちになったのである。

斉藤の現状を知らない他チームのファンとしても、一度でも1軍のマウンドに帰ってきてほしいと思うもの。

「今の斉藤」の投球を見て、「こんなになってしまっていたのか…」という気分になったファンも多いのではないか。そのとき、彼がついに現役復帰を諦めたのもわかる気がした。

 

長々書いてきたが、今回久しぶりにめちゃイケを観た時に、まさに斉藤の引退セレモニーを想起したのだった。

 

往年のめちゃイケに思いをはせながら見る最終回。

もはやそこに、かつてあった斬新な企画や、ニヤっとさせられる気の利いたテロップもない。

「なつかしさ」以外では画面に映るなにひとつに感心できなかった。

そのことが何よりも悲しかった。

 

斉藤の引退セレモニーでの投球が悲しかったのは、彼が並みのいい選手だったからでなく平成を代表する大投手だったからだ。その残像がぼくたちには残っている。

それと同じだ。子どものころのぼくらの話題をさらっていった「めちゃイケ」が脳裏にまだあったからこそ、今のめちゃイケの姿は悲しく、「ああ、もう終わってもいいな」と思えてしまった。

 

でもこれはあくまでもぼくの主観であって、もしかしたら、今も毎週楽しみにしているファンは、まだまだ続いてほしいと思うものなのかもしれない。

ただ、今のめちゃイケの面白さはぼくの心にまでは届かなかった。それゆえに、最終回を迎えるのはふさわしいと思うし、お疲れさまでしたと送り出したいと素直に思ったのであった。

日本語「好き」の守備範囲が広すぎて暴走する問題について

映画の字幕において「I like 〇〇〇」が出てくると、訳者の腕の見せ所だ。

例えば、フルCGアニメの映画「ペット」において。最初はいがみ合っていた小型犬のマックスと大型犬のデュークが意気投合するシーン。

デュークが、マックスについて「I like him!」と明かすのだが、邦訳では「いい奴だなって(わかった)」となっている。これは標準的な意訳だ。

 

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動詞「like」の直訳はいわずもがな「好き」だが、ここで「好き」と訳すとちょっとニュアンスが伝わらない。ちなみにマックスは映画の最後で、彼を片思いするメスのポメラニアンギジェットと結ばれる。

 

 

ここでいう「like」はおそらく、字幕のように「いい奴だとわかった」とか「こいつとは気が合うな」と訳すのが適当だろう。

「like」とはそれぐらい、日本語の「好き」の一言では収まらない親愛の意味が込められており、もちろん「love」とも全然意味が違う。ちなみに言わずと知れた「make love」はセックスを意味する。

 

英語のlikeとloveの間にはある明確な違い。にもかかわらず、日本語にはこれに相当するのが「好き」もしくは「愛してる」しかない。このことがいかに生きるのに不自由なのかをみなさんは気づいているだろうか?

ここで読者は「そんなことはない。お前がここまで書いてきたとおり『いいやつだな』『お前とは気が合うよ』と言えばいいじゃないか」となるだろう。

そういうことではない。likeほど気軽に、ダイレクトに、「お前いいやつだな」「お前とは気が合うよ」というニュアンスが集約した、性的欲望を誘発させない言葉が日本にはない、といいうことの不自由さが問題なのだ。いうならば「『好き』を1/2ぐらいを伝える言葉」が日本語にはないのだ。

日本語は表現力が豊かだというステレオタイプがあるが、肝心なところがめちゃくちゃ貧相でどうする。

 

 

ここで突然だが、フェルディナン・ド・ソシュールという100年ぐらい前に死んだスイスのおっさんを祖とする構造主義言語学の話をする。知っている人は読み飛ばしてもらっていい。

構造主義言語学では、名前(シニフィアン)が、それぞれの名付けられた対象(シニフィエ)に一つずつ名札のようにぶら下がっている、とは考えない。ぼくらも実生活ではそういう風に考えがちだが、実際はそうではない。

たとえば、木について考えよう。英語には「tree」と「wood」という二つの「木」をあらわす単語がある。前者は生えている木、後者は切り倒した木材という意味の違いがある。

しかし、日本語では二つを区別なく「木」と扱う。「名前名札説」が正しいなら、これはおかしいだろう。woodの名札は日本語ではどこに行ったのだろう?

だから、構造主義言語学で「差異の体系」というように、言語というのは「ものごとの区切り方」の違いといえるというわけ。treeとwoodがある英語、木しかない日本語、そこに言語の本質的な違いがあるのだ。

 

ここでさらにもう一歩進むと、この各言語の「ものごとの区切り方」が、われわれの文化を規定している、ということも言えるのだ。

たとえば、大人になって「ADHD」という言葉に知り、子どものころの自分がただのグズでなかったのだと知った人もいるだろう。ADHDという新たな「区切り」をもらうことで救われたのだ。

あるいは、ゲスな上司に「最近、いつしたの?」と聞かれた際、我々は「セクハラ」という語の区切り方を知っているからこそ、怒りに震えることができる。

行動や感情があって言葉が生まれるのではない。順序はまるっきり逆だ。言語によって行動や感情が規定されていくのだ。

 

さらに思考を暴走させるならば、ぼくがよくする思考実験に、「交際」に関する表現が乏しい言語というものがある。実際にそんな言語があるかはわからないが。

その言語では恋愛も結婚も浮気、不倫の違いも存在しない。性愛全般についてアバウトな言語なのだ。

すると、その言語が支配的な社会では婚姻外の性交渉は果たしてとがめられるのだろうか……??

 

 

閑話休題。そういうわけで、likeとloveという区切りについて、日本語に「好き」しかないことがいかに不自由化というのがわかってもらえただろうか。

もっとわかりやすくいえば、「好き」というのは極端なのである。だからこそ、likeぎみの「好き」が暴走してしまうことだってあるだろう。

0から100の目盛りで考えよう。「好き」と伝えない場合が0ならば、「好き」と伝えただけでメーターがぐーんと100まで一気に行き切ってしまう。そこに「like」に相当する、50ぐらいの言葉があってもいいはずなのだ。

 

だから、日本の男女の付き合い方というのは不器用だと思うのである。

交際中、あるいは結婚後に配偶者と別の異性とはいっさい交流をもってはならない、という強固な思想を持っている人がいる。

しかし一方で、恋人がいたって結婚したって、ほかに仲がいい異性がいてもいいではないか。セックスをしないかぎりは、という人だっているはずだ。

でもそういう時、その友達に対する「like」を表現する言葉をわれわれ日本語話者は持たないのだ。

 

今、この箇所を読んだ瞬間から、ぼくのことをゴミムシであるかのように睨み始める人もでてくるだろうが、ちょっと待ってほしい。別にこの発想は浮気や不倫を勧めているわけではない。むしろ逆だ。

もしも「like」に相当する言葉が日本語にあったら、中には浮気や不倫を思いとどまっていた人もいただろう。繰り返すが、行動に言葉があとからついてくるのではない。言葉によって行動が規定されるのだ。頭の中に「好き」しか持ち合わせていないから、感情までもが100までいって暴走してしまう

 

おまけ

文化による区切りの違いの話で言うと、キスというのは非常に面白い。

各国で微妙に差異はあろうだろうが、一般的に、ほほへのキスがlike唇へのキスがloveに相当するだろう。

この違いによって生まれるドラマはいろいろある。

たとえば映画「ホリデイ」において、偶然にも一夜を共にすることになった初対面のキャメロン・ディアスジュード・ロウ

挨拶もほどほどに、おやすみのキスをほほにしようとしたその時。アクシデントで口同士でキスをしてしまい、一気に燃え上がってしまう、というシーンがある。

 

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ところが、日本ではこんなことは起こりえない。

ほほのキスという概念が一般的ではないからだ。キスしたらほほであろうが唇であろうか、アンストッパブルオーバーランしてしまう。

何度もいうが、極端なのである。

【映画評】悪堕ちする綾野剛が悲しくてセクシー「日本で一番悪い奴ら」

 

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白くて汚れのないものほど、肥だめに突き落としてみたくなるのは、ぼくだけの倒錯した性癖だろうか?

 

「凶悪」の白石和彌監督による「日本で一番悪い奴ら」は、北海道県警に実際に起きた、拳銃所持犯罪の検挙数をあげるためにあろうことか警官が銃の売買に手を染めていたというとんでもない不祥事を題材にした映画だ。

2002年に覚せい剤取締法違反や銃刀法違反などの容疑で逮捕された稲葉圭昭氏のルポタージュがモチーフになっており、綾野剛が主役を演じ切っている。

 

柔道の腕前を買われ、道警に入った諸星要一(綾野)。

公共の安全を守り、市民を犯罪から保護するためです

警察になった理由を聞かれるたび、馬鹿の一つ覚えのようにそう繰り返していた青年が、いかにして「日本警察史上、最大の不祥事」を起こすまでの悪に落ちてしまったのかーー

 

悪いお兄さんに誘われて…

素朴な青年だった諸星だが、彼をやばい道にいざなうのはピエール滝の演じる先輩刑事だ。

ピ瀧は「凶悪」でも無茶苦茶怖いやくざを好演していたが、本作ではやくざにしか見えない先輩刑事として登場する。

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公共の安全なんて誰にも守れねえ

マジで安全な社会にしようと思ったらな、産婦人科医になるしかねえよ

生まれてくるガキ、皆殺しにするんだ

誰も生まれてこなきゃ、安全だろ?

人間様が生きてる限り安全な社会なんてありえねえ

必ずおかしなやつが生まれてくるからな

俺らの稼業は、そのおかしなやつらがひり散らかすクソの掃除だ

 

ピ瀧ははなっから正義など信じていない。

彼が象徴するように、警察社会を支配するのは正義なんかではない。

彼の若頭みたいな風貌と物言いは、警察と闇社会の間に本質的な違いはない、というこの世界の説明書になっている。

そのかわりにピ滝は諸星に、警察社会における絶対は犯罪の検挙で加算されていく「点数」であることを吹き込む。

 

俳優・綾野剛のレンジの広さ

何よりもこの映画、綾野が演じている役柄のレンジの広さに驚かされる。

いうならば、(精神的に)女の子に触ったことすらない童貞から、チンコの乾く暇もねえというヤリチンまで演じているのだ。こんなレンジはなかなかない。

順番で行くと、好青年 → 悪徳警官 → チンピラ → やくざ → ジャンキーの順である。

 

また、綾野に関してはこれまでこんだけ濡れ場を演じたことはないだろ、というぐらい脱ぎまくっている点も注目だ。
話は前後するが、矢吹春奈をバックで突きながら「俺、日本一の警官になるんで!」って、倒錯しすぎててもうなんも言えねえごちそうさまでした

ソープでうっかり入っちゃうシーンもよかったぞ。

 

クソはどこに行けば見つかりますか?

諸星は最初から悪人だったわけではないが、善人だったわけでもない。

象徴的なのが、先述したピ瀧のセリフの後に諸星がした質問だ。

あの…クソはどこに行けば見つかりますかね?

 

諸星はピ瀧の性悪説に反感を持たない。それどころか、まるで遠足に持って行っていいものを聞くかのような純真な面持ちでそう尋ねている。

諸星の中に最初は何もなかったのだ。なんの思想もなく、空っぽ。

唯一、彼にインストールされているのは、部活で培われた「上の言うことは絶対」という徹底した体育会系メンタルだ。

素直で従順な人間は染まる色を選ばない。悪にだって染まろうと思えば染まってしまう。

そんな彼が、地方警察という上意下達のピラミッド機構と運命的(悪魔的)な出会いを果たしてしまうのだ。

 

諸星は「点数」稼ぎが自己目的化した警察世界の倒錯において、不適切な捜査手法に始まり、犯罪そのものにもなんの躊躇もなく踏み出していく。

何の疑いもなく悪に汚れていく諸星=綾野が恐ろしくもあり、セクシーだ

 

2016年の映画とは思えない昭和感

忘れてはならないのは、この映画の美術、ロケーションである。70年代から00年代までが描かれているのだが、とくに前半の70、80年代がすばらしい。もちろん撮り方も。

2016年に公開された映画とは思えない、ほこりをかぶったかのような映像である。

 

キャバクラで警察もやくざもの別なく楽しむ姿に、深作欣二監督の「県警対組織暴力」を思い出したのは僕だけだろうか。

 

県警対組織暴力 [Blu-ray]

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脇をかためる俳優陣も素晴らしい。

ピ瀧はもちろんのこと、諸星と兄弟盃を交わすやくざを演じた中村獅童もいい。

女優陣もすばらしい。「凶悪」に続いての白石作品への出演となった松岡依都美は、キャバクラでほんの一瞬の出演だったが存在感があったし、なによりもあの矢吹春奈である。この映画で余すことなく濡れ場に挑戦している。俺の青春が…(感涙)

彼らが退場して最後に残ったのがデニス植野ってどないやねんではある(ただ、彼も胡散臭い外国人役の存在感は素晴らしかった)。

 

彼は変わったのか、変わってないのか

物語の途中では、諸星が後輩警官(中村倫也)に警官になった目的を尋ねる。

公共の安全を守り市民を犯罪から保護するためです

後輩が答えたそれは、諸星が警察になっていたころ、馬鹿の一つ覚えのように繰り返していた言葉そのものだ。

そのときの綾野の後輩を見る表情が絶妙だ。にらみつけているのか悲しんでいるのかはっきりしない表情で、目を細める。銃を買う金に困り、消費者金融にも貸し渋りにあい、ついにシャブの売買に手を染めてしまった彼。俺の手はこんなに汚れちまったよぉ……という表情なのだ。

 

終盤、ついにどん底までいってしまった諸星。彼を地獄まで突き落としたのは警察組織である。

けれど、そんなになってまでも、まだ組織に対する忠誠を誓う諸星の満面の笑顔が物悲しい。

まるでそれは、イノセントだったころの諸星の笑顔のままなのだ。こんな切ない笑顔があるだろうか。

 

彼は昔と変わったのだろうか? 変わっていないのだろうか?

それはもう誰にもわからない。

 

参考記事

jp.vice.com

s-iroha.jp

gendai.ismedia.jp

「みなさんのおかげでした」最終回を観ながら考えたとんねるずの「限界」

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昨日、3月22日の放送をもってフジテレビが32年放送してきたバラエティ番組「とんねるずのみなさんのおかげでした」が終了した。

 

32年のうち最後の10年間をほぼ準レギュラーのように出演していたおぎやはぎは、番組終了が発表されて以降、TBSラジオの「JUNKおぎやはぎのメガネびいき」でたびたびこの番組について話題にしてきた。

 

最終回が放送された数時間後に放送された22日の放送でも「みなさん」の話題に花を咲かせたふたり。

 

今日はその中でも、番組の終末期を語る上で外すことのできない人気企画「全落(ぜんらく)オープン」(落とし穴に落ちるときのリアクションや美しさを競うというドッキリ企画)についてのネタばらし的な部分が面白かったので、紹介しながら、この番組について書いておきたい。

 

全落のネタばらし

矢作:全落に関してはね。まあ番組でもよく言ってますけど、(落とされる側は)ほとんど知ってました(笑)

小木:バレてたね

矢作:あの~、はい(笑)

小木:わかりますよそりゃ。ドイツ村だから

矢作:ドイツ村っていうね、木更津に大きいアミューズメントパークがあるんですよね。なぜかそこがいつも(ロケに場所を)貸してくれるんですね。中々あんな大きい場所で落とし穴作っていいとこっていうのは、そう探せるもんじゃないんですね。

だからドイツ村ばっかになっちゃうんですね

小木:そうなんだよ

矢作:「みなさん」の収録っていうのは木曜日と金曜日にあるんです。必ず。それで(スケジュールに)「木曜日 ドイツ村」って入ってたらもう落とし穴しかない(笑)

小木:そうなんだよね

矢作:撮影秘話といえば、まあもう終わったからいいますけど、後半はどんだけわからない振りして落ちるか選手権になってました

小木:いや、ほんとそう。しらばっくれてさ。知らない振りして

矢作:どんだけ知らない振りをして上手くやるか

 

合言葉は「大丈夫でしょ。みんなプロだから」

矢作:俺とノリさん(とんねるず木梨憲武)がレポーターで現場にいるんだけど、やっぱ雨降ったりすると、落とし穴って弱いんです

小木:弱いよね

矢作:だから、結構落とし穴が浮き出て見えちゃったりする(笑)「絶対ダメだろ。すぐわかるだろ」っていう話になるんですけど。

俺とノリさんの合言葉だけど「大丈夫でしょ。みんなプロだから」(笑)みんなプロだからそんな野暮なことはしません

小木:たしかにそうなんだよ

矢作:っていう撮影秘話は、全落に関してはありますよね

 

 

「みなさん」のスタッフは優秀

矢作:落とし穴もどんどん成長していってね。最初は穴結構小さかったのよ

小木:そうだったんだっけ

矢作:小木とか全速力で落ちたりするから。全速力でいったときに、落とし穴が長方形に長くないと、(落とし穴の)縁(へり)にぶつかっちゃうの

小木:そうなんだよね

矢作:意外と走っていくと長くて、胸とか

小木:意外と胸とかよく当ててた。危なかった。それで大きくしていったんだ

矢作:そう。それでどんどん大きくしていったりとか。やっぱり必ず、ADがやるのよシミュレーションを。だけどADのシミュレーションだから本気で走んないんだよね。あと知ってるし。だから小木とかみたいに本気で走るとね

小木:危ないんだよね。本当に怖かったもん。わかってるからこっちも(笑)

矢作:何度もやってるだけあって、もう途中から安全性がハンパじゃない。「あんな落ち方して怖くないの?」とかよく聞かれるんだけど。もうね、ホント(落ちても)どっこも痛くないの!

小木:ふっかふかだからね。(落とし穴の)中ね。 

矢作:ふっかふか。アトラクションとして落としてあげたいぐらい

小木:気持ちいいぐらい柔らかいの。ふわっふわで(笑)

矢作:もうスゴイのあの安全性。怪我をする確率0パーセント

小木:あれも時代なんだね。絶対怪我のないような感じになってるから。信頼できてたもんな。最後の方は落ちるにしても。どうせ大丈夫だろうと

矢作:あれはほんと皆さんの美術の人を称えたいよ。優秀だよ

小木:優秀ですよあの人たちは。本当にプロだよね

 

 

視聴者を「内輪」に引き込んだ「スター性」

とんねるず=「みなさん」の笑いについては、これまで「内輪ウケ」だの「楽屋オチ」だの「部室ノリ」だのさまざまな形容がなされてきた

それらは間違いではない。確かにそうである。

彼らは自分たちの「内輪」の中に視聴者を暴力的なまでに強引に引き込み、結果、80~90年代のテレビバラエティをけん引してきたのだ。

しかし、視聴者を引き込もうといっても、吸引力が必要だ。おぎやはぎもラジオ番組の中で口々にとんねるずを「スター」と呼んだ。まさに、とんねるずが持って生まれた「スター性」こそが、視聴者を「内輪」に引き込んだ力に他ならない

とんねるずが「お笑い芸人」という呼称が似合わないのはそこにあると思う。彼らはお笑い芸人より先に「スター」だったのだ。

話は少し逸れるが、とんねるずが一貫してSNSと距離を置いているのもそういうところに理由があるのではないか。スターは下々の者たちの手に届いてはならないのだ。

 

とんねるず=「みなさん」の限界

同時に、とんねるず=「みなさん」の「限界」もそこにあったんじゃないかと思った。

おぎやはぎは別に悪くないのだが、抜き出したように「プロの演者への信頼感」「優秀なスタッフの仕事」というのは確かにこの番組にはあったのだろう。

ただ、その一方でそのふたつがそろえば視聴者が喜ぶわけでもないのである。視聴者側のことは果たして見れていたのか。

視聴者不在のまま、演者とスタッフが称えあっている光景――想像に過ぎないが、それはとてもとても今のフジテレビらしい光景に見えてしまうのである。

 

おちょくってはいません。心配してるんです

「みなさん」最終回の最後には、とんねるずが自分たちのヒット曲「情けねえ」を熱唱した。

 

情けねえ

情けねえ

 

 

最後のフレーズを「フジテレビを」「おちょくるなよ」と替え歌で歌ったふたり。その「上から目線」はやはり、我々の頭上に輝くスターらしいのだが、もはやぼくらはフジテレビをおちょくっておらず、むしろ「心配」しているのだと思っている。

 

なにはともあれ、とんねるず=「みなさん」=フジテレビが一時代を築いたことは確かなのである。

いつかまたモジモジくんがまた見られることを願って。

バーイ、センキュー。

 

おまけ:先週15日放送分の全落について語った箇所(個人的にエモかったので)

矢作:感動したよ。俺、現場でリポーターやってんじゃない。ノリさんと。

今回一番感動したのはね、日村さんだね。(中略)

俺にしか聞こえなかったんだけど、落ちて引き上げるときに、一回(カメラを)止めるときがあって「あーあ、終わっちゃった」つったの。

小木:ああ、なるほど。全落が最後だし日村さんが落ちるのは最後だしね。

矢作:そうそうそう。穴の中で「あーあ、終わっちゃった」って。

(中略)

矢作:設楽さんが落ちた時も「二度と落とし穴にことはないんだろうな」って日村さんが言ってた(笑)

小木:まあ確かに日村さんは体張ることはあると思うけど、設楽さんに対してはないもんね

矢作:とんねるずの番組ぐらいしかなかなか体張ることないでしょ

小木:45を超えてさ、張るのはそれぐらいだもんな。寂しいね。全落

 

 

 

 

 

#恋愛マニュアル の功罪

こないだヒカリエでランチしたときに話したことなんですが(こういう書き出しの恋愛ブロガーに生まれたかった)。

 

そこで男女の会食の際の支払いが話題になった。

1円単位で割り勘にする男ってダサいよねーとか、でもこれって結局個人の感じ方とか時と場合によるよねーとか。

 

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「そういうの、いい加減はっきり決めておいてほしいわあ」とこぼしたぼく。

 

そこで友だちが言った意見に、ぼくは膝を打った。

 

そういうのマニュアル化しないほうが、早めに見極められるよね

 

 いったいどういうことか。

もしあなたが恋愛マニュアル的なもので理論武装しておけば、相手と一応は交際するまでになるかもしれない。

しかし、その後関係が深まっていくと、いつかは必ずあなたの素顔が露出するものだ。

 

例えば、あなたは本来モットーが「1円単位での割り勘」だったとしよう。

恋愛マニュアルに学んでそのモットーを隠していても、付き合いの長くなってきたらやがては恋人にもためらいなく「1円単位での割り勘」を迫っていくだろう。

 

ここで言いたいのは「1円単位での割り勘」の是非ではない

相手が「1円単位での割り勘を求めてくるやつなんて無理」という人だったら破局であるし、きっと「もっと早く言っておいてよ…」と思うはずである。

つまりそうした場合、恋愛マニュアルはただ単に来るべき破局を先延ばししていただけになる。

 

 

簡略化しているが、図式にするとこんな感じだろう。ワードで作ったたのは許してほしい。

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友達に言わせれば、黒い矢印の期間が「無駄」ということになる。

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一方、同じ別れでも、最初からありのままの自分でぶつかってくるような相手だったら、速攻でごめんなさいできていただろう。交際していたであろう時間を、ほかのことに費やせていたはずである。

この理論にぼくは思わず「なるほど」と思ったのであった。

 

 

恋愛マニュアルの功罪はほかにもあると思った。

恋愛マニュアルはいわば、「どんな相手から見ても及第点」を装うためのツールだ。

誰から見ても60~70点の人材を装うことはできるだろうが、それ以上となるのには、身もふたもない話だがその人の人柄になる。

 

一方、たとえ素顔のままではマニュアル的にはNGな人物がいたとしよう。10人中9人ぐらいは「なし」と判断するかもしれない。

しかしそれは、残りの1人に猛烈にはまり、「100点」をたたき出す素顔かもしれない

Tinderで何度も左スワイプ(NOPE!)されようと、100人、200人が通り過ぎていけば中には「like!」、あるいはゆるぎない「Superlike!」を出す人がいるかもしれない。

 

「蓼食う虫も好き好き」ということわざが日本にはある。

ぼくが恋愛マニュアルで素顔を隠さないほうがいい、と思うようになったのはそういう理由である。