いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ほしかったものをゴミに変えていく人生

先月最終回を迎えたドラマ『大豆田とわ子と三人の元夫』で、松田龍平演じる八作がこういう言葉をとわ子(松たか子)にかけていた。

手に入ったものに自分を合わせるより、手に入らないものを眺めている方が楽しいんじゃない?

なるほどたしかに、オダジョーにプロポーズされ、4度目の結婚に至る寸前まで歩みを進め、悩みに悩んで辞退した直後のとわ子にかける言葉としては申し分ないかもしれないけれど、ぼくは全然そうは思わなかった。

ほしいものをほしいほしいとほしがっている時間ってそんなに楽しいものなのだろうか。ほしいものがあったら、すぐに手に入れるに越したことはないのではないか。

 

以前、作家の中村うさぎ買い物依存症になったときの顛末を書籍化したエッセイ集、たしかあれは『ショッピングの女王』か『私という病』だったと思うが、その中で印象的なことを書いていた。正確には覚えていないのだけれど、どれだけほしかった服やバッグも、いざレジへ持っていき、お会計を済ませてしまうと、すぐにゴミに変わってしまう、というのだ。

これを読んだ当時は恐ろしいものだと思っていたのだけれど、今は少し違う感想を持っている。そりゃ人生が破滅するほどの買い物依存症は困るけど、そもそも人生は、ほしかったものをお金を貯めて買って、ゴミにしていく作業なのではないか。

フロイト先生は100年近く前、快と不快の関係について興味深い説を唱えていた。彼いわく、快は「不快を取り除いた状態」なのだという。

ぼくもこの点においてはフロイト学派だ。本当にそうだと思う。オナニーを「抜く」と表現するけど、フロイト学派的にはその感覚は正しい。オナニーは不快を「抜く」行為なのだ。

ほしいほしいほしい、と思って手に入らない状態ははっきりと「不快」だ。ほしいものがあると、頭の中を支配される。あれを買ったらあんなこと、こんなことをしようという考えで頭がいっぱいになってしまう。

ほしいものが手に入るのを心待ちにする。その状態を「楽しい」と表現するのは、「(不快だから)楽しい」というマゾヒズム的な倒錯であることを忘れてはならない。

 

ほしいものをゴミに変えていく。これは資本主義側の要請でもある。

80年代に西武百貨店が展開した、糸井重里による「ほしいものが、ほしいわ。」というコピー。これは、資本主義側の要請を端的に表現した秀逸なコピーだ。

このコピーの真意を解説するなら、「ほしい(という欲求を喚起させる)ものが、ほしいわ。」となる。

しかし、このコピーには、コピーの主≒西武百貨店≒資本主義サイドのその真の欲求が、巧妙に隠ぺいされている。ぼくら消費者が「ほしいもの」を手にするだけでは彼らにとって意味はないのだ。「ほしいもの」を手に入れて、それを実際に買い、ゴミにして、また「ほしいもの」を手に入れて…「ほしいもの」を手に入れてはゴミにする、このあてどもない快と不快の点滅運動こそが、資本主義の肥させる飽くなき循環運動をもたらす。

今日もぼくがあくせく働いてサラリーを稼ぐのはほしいものをゴミに変えるためだ。将来を見据えて貯蓄したい? ふざけるな。蓄財など、この世で最も無意味でナンセンスな行為だぞ。さあ、みんなも社畜として雀の涙ほどのお金をためて、ほしいものをさっさと買って、ゴミに変えていこうではないか。