いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

100年後の子どもは歴史の教科で2012年をどう学ぶのか?

たとえば、100年後の歴史の教科書に今のことがどんな風に書かれてあるかを考えると、とても興味深い。
“何が書かれているか”でもいいし、“どのように書かれているか”といってもいい。とにかく興味が尽きない。


というのも、いままでどおり公職につく著名人を主語に書いていけば、それがそのまま歴史になるというわけでもないからだ。今が野田さんで、野田さんの前が管さんで、管さんの前は鳩山さんで…という具合に一国の宰相を淡々と記述していっても、もはやそれは歴史たりえない。これからは、これまでの歴史(と呼ばれてきたもの)において重要視されてきた、国家という単位のプライオリティが、どんどん低下していく可能性が高いからだ。

そうすると、歴史という言葉で何を綴ることになるのだろう。


一つの可能性として、イノベーションという単位で記述するという方法がある。このブログを今iPhoneiPadで読んでいる人はスティーブ・ジョブズの歴史的意義を感じざるを得ないだろうし、Facebookで日々友達と交流している人はマーク・ザッカーバーグの歴史的意義を感じざるを得ないだろう。彼らが成し遂げたイノベーションは、今や一国の「何年に誰々が首相になって〜」などといった政治的事実より遥かに重要なことかもしれない(特に首相がコロコロかわるような国では)。


Facebookといえば、「ネット」という関数もこの問題には絡んでくる。
2000年代以降、ネット上にも不特定多数の人に影響を与える著名人が生まれ始めている。アルファブロガーやアルファツイッタラーといった人たちだ。彼ら彼女らがこれから100年後に、歴史の教科書でどのように記述されるかというと、これまでの歴史観のままでいくと何も記述されないことになるだろう。ネットで生まれた知識や価値というのは、今のところ地層のように積み重なっていくというより流れ去っていくもので、その中に住まう人物もまた、現実社会以上にその存在ははかないものだ。はたしてそれは歴史を欲していないのだろうか?


あるいはこれは、民主主義国家一般がたどる道なのかもしれない。かつて誰かを主語にして歴史を語ることができた。裏を返せばそれは、「歴史の主語」たりえる特権階級の存在を許していた社会だったということに他ならない。民主主義国家もその過渡期には制度設計のために擬似的な特権階級を必要としたが、民主主義が徹底されていくならば、「歴史の主語」たりえる特権階級は消滅するはずだ。
そういう事を考えると、ふと小学6年生のときの担任の話を思い出す。ぼくの担任の先生は「歴史を作ったのは教科書に載っている有名人ではなく、名もなき人々だったことを忘れないでほしい(大意)」という印象的な言葉で、ぼくらのクラスが受ける小学校最後の社会科歴史の授業を締めくくった。今にして思えば、いろいろ政治的背景を勘ぐってしまう言葉なんだけれど、今こそ言えるだろう。これからの時代は、歴史の書き手を特権的な存在が独占する事はできないんだ、と。


歴史をどう記述するかというのは、政治的にデリケートで、早い話がめんどくさい案件だ。冷戦の終結後にアメリカのフランシス・フクヤマという学者が、『歴史の終わり』という本を著した。資本主義vs.社会主義の物語としてつむがれてきた人類の歴史は、社会主義の自滅にちかい資本主義の勝利によってその歩みを止めた、というのだ。これについては反論も多く、特に解決するめどが立たない世界各地の民族問題の当事者からすれば、西洋文明の視点から勝手に歴史を終わされるなんてあまりにも身勝手な発想というものだ。
彼らと同様に、ぼくもまだ歴史は終わっていないと思う。
でもそれは彼らの言う意味とはすこしちがう。
歴史が終わったように見えるかもしれないけど、それは新しい歴史の語り方がまだ決まっていないだけなのだ。