スポーツメーカーのナイキが公開した動画「New Girl | Play New」にネット上で賛否を分けている。
2分ほどの動画で、ざっと説明するとあらすじはこうだ。
生まれてくるわが子を心待ちにする夫婦。わが子は「女の子」だと判明する。ここで夫婦の脳裏には、女性だと就職しても会社で活躍できないのではないかや、犯罪に巻き込まれるのではないか、といったいろいろな不安が去来する。
日本の男女には43.7%の所得格差がある。女の子は育てるのが大変。いろいろな話を聞く…。
このあと、動画には世界で活躍する女性アスリートらが立て続けに登場し、これからは女の子が何にでもなれる時代だ、というメッセージを打ち出している。
一見、耳触りのいいメッセージだが、一部フェミニストからは、「現実は『女の子が何にでもなれる時代』になっていないんですが???」とこん棒でぶっ叩かれているのが現状である。
おはようございます。朝のコーヒーと一緒にどうぞ。 pic.twitter.com/QNM1W4qrZq
— フェミ松速報! (@femimatsu) 2021年5月30日
「女の子が何にでもなれる時代」。果たして、これがどういう定義づけできるかは定かでないが、現に日本の男女間にはれっきとした所得格差が横たわっているし、管理職の比率をめぐる統計もそう。現状は「女の子が何にでもなれる(そして、なるためにそれ相応の対価が支払われている)時代」になっているとはいい難い。
しかし、そのことは動画を作った人たちも織り込み済みだろう。元に、CMの中で所得格差には触れている。
現状、「何にでもなれる時代」になってはいないが、動画は「これからそういう時代を作っていきましょう」、という企業としての意思表示ともとれる。
先に触れたように、動画には出産を控えた女性が登場する。妊娠・出産という命を賭した重労働を課された女性がいるのに、「女性が何にでもなれる時代」を謳うのは、たしかに食い合わせが悪いように見える。しかし、本作がスポットを当てたいのが、彼女の生む娘という次代の担い手だと考えたら、納得できないこともない。
なぜ、一部フェミニストが噛み付くかというと、多くの人の導入となった、ナイキジャパンのツイッターがまずかったと思う。
今までは「女性らしく」なろうとしてた。だけど、今はもう、何にでもなれる時代。
— Nike Japan (@nikejapan) 2021年5月28日
新しい未来を生み出すまで、前に進み続ける。
⚾⛸🏈🎾#ナイキ
🔗👇https://t.co/g14uP5uvgU pic.twitter.com/PPSpNFy8o3
これは動画コンセプトのコピペなのだが、この言葉好きなで、ともすればノーテンキにすら思えてしまうトーンだと、やはり、「現状認識甘々なお花畑動画」だという先入観を与える恐れがあった。
動画本編を観れば印象が変わるだろ、という期待もできなくはないが、ぼくは元来、こうした炎上案件については、「紹介の仕方」つまり導入部分が要因になっている部分が大きいと考えている。
しかし、この動画が支持を得られない理由は、そうした「フェミニストの虎の尾を踏んだ」という点ではない。真の理由は別にあるのだ。
「女性問題」を一緒くたにしているように見える表現の「うかつさ」
ここまで、擁護ととられるようなことを言っておいてはなんだけれど、ぼくはこの動画を全然支持していない。本作全体から醸し出されるなんともいえない「不用意さ」「うかつさ」は耐え難かったし、見終えたときの余韻は爽快などとはほどとおい、「気持ち悪さ」「不気味さ」だった。
その理由について説明していこう。
まず、内容の「不用意さ」だが、これはそもそも、「たった2分弱の時間に、のっぴきならない問題を詰め込みすぎ」ということに起因している。
動画の内容を振り返ってみると、先に紹介したように、最初の方で「女性が会議で押し黙る描写」と「夜道で不安げに後ろを振り返る女性の描写」が立て続けにある。
しかし、よく考えてみると、いや、よく考えてみなくても、この2つの描写には直接の関連性はない。特に、「夜道で不安げに後ろを振り返る女性の描写」と、「女性が何にでもなれる社会」のつながりは、かなり薄い。その後に続くおばあちゃんたちのシークエンス。これは、少しわかりにくいが「“女性らしさ”という固定観念」についてだろう。
ここまで、最初の十数秒ですでに別個の3つの問題が提示されている。
つまり、「女の子が何にでもなれる時代」という本来あったお題目にもかかわらず、わずか2分の動画に別のテーマまでギュッと詰め込んでしまっているのだ。観る者からしたらノイズが多い。論理的にものを考える人ほど、「なにこれ?」となるのではないかと思う。
そして、そうした手触りの動画を目にすると、この問題に敏感である人ほど(そしてそれは得てして当事者の女性であるが)「お題目が“女性”だからってすべての問題を安易に一緒くたにしてない?」という、作り手の「迂闊さ」「思慮の浅さ」が透けて見えてくる、という仕組みになっているのだ。
逃げ場のない「何にでもなれる」の熱苦しさ
もっとも、ここまで突いてきた部分は、形式的なものである。伝え方が悪い、という話にすぎない。絵で言えばいわば、技法や画具、額縁に相当するもので、「伝えたかったこと」ではない。
では、肝心の「伝えたかったこと」はどうだったのか。先ほど書いたと通り、実はぼくはこれが一番ダメだった。初めてみたとき、ゾワッとした。全身の毛が逆立つような気持ち悪さを感じた。
この動画は、執拗に「何にでもなれる時代」を称揚する。
しかし、そもそもの話をさせてもらえれば、「なりたいもの」って本当に必要ですか?
と思うのだ。
ゆとり教育かなんだか知らないが、とかく、「なりたいものになる」ことが「良きこと」とされる世の中である。就職面接でも聞かれた。口からでまかせで突破してなんとか会社に潜り込んだら、今度は1on1で聞かれるのである。「君はどのような人材になりたいのか?」、と。
それぐらい考えろと言われればそれまでだが、「なりたいもの」はないけど、今の仕事を真面目にするだけではダメですか? と問いたくなる。「なりたいものがない」人材にとって、「何になりたいの?」がどれだけ苦痛であるか、なりたいものがある人には分からないのかもしれない。
動画の後半では、各スポーツ競技で、特に性差の枠を超えて活躍したことのある女性アスリートらを中心にピックアップ。冒頭から出ている夫婦は、妻がいよいよ出産する段階になり、彼女が必死にいきんでいる姿に、カットバックでスポーツシーンで活躍する女性たちが映るという、何とも言えないトリップシーン。
ここで音楽も、弦楽器が激しくなっていき、ファナティックに強迫的にムードを掻き立てる。火サスかよ。
そして動画は最後、無事生まれてきたわが子を抱えながら、顔に笑顔の張り付いた女性が「ねえ、あなたは何になりたい?」と語りかけるところで終わる。
出産はお母さんも大変だっただろうが、赤ちゃんだってそれなりに大変だったはず。覚えてはないであろうが。そこで吹き出しに当てはまるのは、本来は「生まれてきてありがとう」的な何かであっても、「何になりたい?」であるはずがない。やっとこさ生まれてきた赤ちゃんである。もうちょっとゆっくりさせてやれ。
ここまで来たら、「あなたは何にでもなれる」ではなく、「あなたはなりたいものにならねばならない」と、脅迫されているような気持ちにすらなってくる。
「何にでもなれる時代」は、たしかに理想的で、まったく非の打ち所のないように思える。しかし、この理想を掲げる人の致命的な盲点は、誰しもが「なりたい何か」を胸に秘めているわけではない、ということだ。今にして思えば、「好きなことで、生きていく」にも同じような圧を感じていた。わかったから、勝手にやっておいてくれよ。
ナイキの動画の支持されないのは、現状認識が誤っているといった些細な問題が理由ではない。ド直球に掲げている理想が不気味だからである。作り手が「なりたい何か」を全く意識もせずに大前提にすえたカルト動画と言えよう。「なりたいものになれる」時代であってもいいが、「なりたいものがなければならない」わけでは全然ないのである。