西武そごうが元日、新聞に掲載した全面広告がネットの一部でボヤを招いている。
ぼくもツイッターで流れてきたのを始めて読んだとき、「一見、耳障りの良い言葉が羅列しているように思えるけど、なんかモヤモヤする」という読後感をもってしまった。
年始の連休という貴重な時間を使って、この「モヤモヤ」について考えていたら、ある原因が分かった。
「わたしは、私」に感じるモヤモヤの正体
一言でいえば、この「モヤモヤ」の原因は「同じ文章で、あたかも同じ話題のように2つの話題が並べられていること」へのモヤモヤではないだろうか。
とりあえず、以下が全文。
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。わたしは、私。
知らなかったのだが、実はこの「わたしは、私。」は2017年から続いているシリーズで、今回突然出てきたわけではない。そのことからも分かることがあるが、後述する。
女だから、強要される。
女だから、無視される。
女だから、減点される。
女であることの生きづらさが報道され、
そのたびに、「女の時代」は遠ざかる。
「女性だから、減点される」の文言は、一部の私大医学部の受験で次々に発覚している女子受験生に対しての不正な「減点」を想起させる。
そのことからも、この文章が「女であることの生きづらさ」を今日的な「社会問題」として取り上げようとしていることは明白だ。
今年はいよいよ、時代が変わる。
本当ですか。期待していいのでしょうか。
活躍だ、進出だともてはやされるだけの
「女の時代」なら、永久に来なくていいと私たちは思う。
途中で挟まる謎のダイアローグ風2行がノイズになっているのだが、それは脇に置いておこう。
現政権はどうも「女性の輝ける社会」を目指しているそうだが、そんなお題目を並べても内実がともなっていないなら無意味だ、ということが言いたいのだろう。たぶん。
では、この「社会問題」パートを受けて、後半の文章で女性に対して「強要」し、「無視」し、「減点」する(この文章でなぜかはっきりと明示されない)主体に対する反抗や、対抗策が描かれるのかというと、そうではない。
時代の中心に、男も女もない。
わたしは、私に生まれたことを讃えたい。
来るべきなのは、一人ひとりがつくる、
「私の時代」だ。
そうやって想像するだけで、ワクワクしませんか。
一転して、後半で訴えているのは「個人の生き方」の問題である。
このように「女だから、」から「私たちは思う。」までの前半の行で書かれているのが「社会問題」であるのに対し、後段の「時代の中心に」から最後までで描かれているのは「個人の生き方」である。
前半と後半は対になっているようでいて、実は全く対になっていない。全く別の話をしている。ぼくが感じた「モヤモヤ」を感じたのはきっとこの「ズレ」にこそあると思われる。
論理的に考えても、後者が前者の処方箋にはなり得ない。いくら個人が「わたしは、私」と思っていても、「強要」し、「無視」し、「減点」する側がそう思ってくれるとは限らない。もしあなたが女性だとして「わたしは、私」だと思って受験に臨んでも、採点する側は「女性」とみなして減点するだろう。アカンけど。
前者の「社会問題」を解決するにはやはり、「社会が変わる」しかないのだ。
なぜケーキをかぶった女性は棒立ちなのか?
このコピーに並行して、背景に印刷されているケーキ(パイ?)をかぶる女性の姿に対しても疑問の声が上がっている。
件の女性はケーキを丸かぶりしているせいで顔は見えず、棒立ち。ケーキは他人から投げつけられているようにしか見えず、眼差しが遮断された棒立ちは「無抵抗」を否が応でも想起する。
この女性、実は女優の安藤サクラなのだけれど、たしかにお世辞にも「わたしは、私」を表現する絵には読みにくい。女性の主体性を表現したいなら、せめて自分の手でケーキをかぶっているかのような演出にすればいいのに。
その謎を解く鍵は、もしかしたら広告とともに公開された動画にあるかもしれない。
以下が公式の動画。
この動画を見ると、少し印象が変わる。動画の中の安藤は、広告の1枚絵よりは躍動的で楽しげだ。
この動画の中から、「わたしは、私」にマッチする瞬間は切り取れたはず。
ではなぜ、あえてあの写真にした? という話ではあるのだが。くれぐれも「選んだ人のセンスがないのでは?」と真っ向からぶった斬るようなことはしないように。
時事問題に“いっちょ噛み”して失敗した?
冒頭でも書いたように、実はこのシリーズは2017年から続いている。17年に起用されたのが昨年亡くなった樹木希林で、18年は木村拓哉だった。
興味深いのはメッセージの傾向で、前の2年のメッセージはどちらも「わたしは、私」というタイトルのとおり、「個人の自由を楽しもう」というものだったということ。今年でいうと、後半の部分がそれに当たる。
逆から言えば、今年のコピーの前半の「女だから、強要される」から始まる部分は、前2回のコピーにはほとんどない要素なのだ。
ここから推測するに、この妙な文章の真相は、送り手側が、#Metooに端を発する昨今のトレンドを、安易に取り入れようとして失敗した、ということではないだろうか。
今回の件で注意すべきは、前半も後半もそのセンスに賛否はあれど、単体ではそれほど間違ったことを言っているようには思えない点だ。「活躍だ、進出だともてはやされるだけの 『女の時代』なら、永久に来なくていいと私たちは思う」というのも分からなくはないし、「わたしは、私に生まれたことを讃えたい。 来るべきなのは、一人ひとりがつくる」というメッセージも、どちらかというと賛同したい。
ところが、それらを混ぜてしまうと最悪な“含み”をもたせてしまう。
「女性の生きづらさ」を挙げるだけ挙げておきながら、「時代の中心に、男も女もない」と続けるのは、下手したら最悪の“開き直り”になってしまう。
さらに言えば、広告の送り手が「(たぶん)良かれと思って」であるからなおさらタチが悪い。今後、この手のトピックで「知った風な口ぶりで致命的に間違っている言葉」が世の中に溢れかえらなければよいのだが…。