いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

タモリと村上春樹をつなぐもの

唐突ですが今日の僕の昼食、ロー×ンで買った「黒ごまとチーズクリームのパン」の中にて、驚くべきことが巻き起こっていました。

クリームかたよりすぎです。

なんということでしょう。クリームが、クリームパンに欠かすことのできない肝心のクリームがこんな辺鄙な地にまで追いやられているのです。クリームパンを買う者、当たり前ですがパンの中心、メインストリームにこそクリームが凝縮されているだろうと予想するもの。いや、というかそんなこと予想するまでもなく、生まれてこの方20数年、右や左に多少ずれていたとしても、まさかここまでパンの端っこに追いやられたクリームは、今日まで見たことなかったのです。ほら、もう少しでパン生地からむにゅっとはみ出るところでした。もしかすると、はみ出ていたら店頭には出回っていなかったのかも知れません。


てなわけで、あまりの物珍しさに食べる手をとめ一枚写メを撮ってしまいました。

しかしここでふと考えてみたいのは、このパンの中で巻き起こっていることは、我々の周りでも起こっているのではないか、ということ。
キーワードは「周縁」あるいは「ニッチ」です。


突然ですが、お笑いBIG3と称される人たちがいます。ビートたけし明石家さんまタモリのお三方。


この三人には三者三様の功績があります。
ビートたけしには映画での成功。
明石家さんまにはフリートークを芸の域にまで確立していったこと。


この二人がメインストリームで華々しく活躍しているのに対して、残ったタモリはどうも印象でやや見劣りしているように思えるかも知れません。ではタモリの功績をひとつ挙げるとすればそれは何か?それは20数年あまり続く「笑っていいとも!」によって確立した、昼の顔か。

多くのタモリファンがそうではないというでしょう。


タモリの功績とはずばり、「タモリ倶楽部」とそれによって形作られたタモリ倶楽部的なもの」に他なりません。この番組が取り上げるのは、従来は「テレビ」になりにくかったもの、一般ウケしないもの、どうでもいいもの。言ってしまえばそれらは「周縁なるもの」といえましょう。おそらく番組開始当初はおそらく、それらニッチなものは、ニッチなものとして受け止められていたはず。


しかしいつからでしょう、このタモリのその芸風と「タモリ倶楽部」がおおっぴらに評価される時代が来たのです。
そこにはいつのまにやらある「転倒」が起きていた。それは、あえてニッチを志向し、「ニッチにみなが大挙して押し寄せる」という転倒です。
それは現行のテレビ欄を視ても明かではないでしょうか。今や、テレビフリークを夢中にさせる番組のほとんどは、「ゴールデンタイム」と呼ばれる午後7〜10時台には見あたりません。それらは11時以降に集中しています。そしてそのコンテンツの内容にしても、例えば「アメトーーク」にしろ「アリケン」にしろ「やりすぎコージ」の深夜時代にしろ、その企画内容からしてあえてニッチに大挙して押し寄せるという心性をかのタモリ倶楽部から継承しています。
そこにはもちろん、規制などの外的な要因もあるでしょう。しかし、作る側も視る側も「ニッチにみなが大挙して押し寄せる」という、メインストリームから一歩外れ人気のない路地を目指すという何とも奇妙な、まさに「お笑い沙汰」がここでは起こっています。



「ニッチにみなが大挙して押し寄せる」。このことがタモリを巡る現象と同じように起こっていると思われているのは村上春樹という作家です。

大作家村上春樹がなぜ売れるのか?その謎に、これまで幾多の批評家が挑戦してきたと思いますが、それら評論を読む限り僕には2つの答えがあるように思える。
1つは「構造しかない」という主に大塚英志が唱えている論です。ここでは関係ないので省きますが、近著において大塚は村上春樹作品(および宮崎駿作品)が世界的ポピュラリティを獲得した背景には、彼の作品に物語の「構造しかない」からだと論じています。


そしてもう1つの答え、ここで取り上げたいのはやはりあの「僕」というキャラクターです。

ある評論家がその著書の中で、村上春樹の作品のある部分を取り上げて、フェミニストは怒らないのかと書いていました。確かに引用された箇所を読んでみると、女性を露骨に性的な対象として視ている、場合によってはひんしゅくを買いそうにも思えます。しかし、この評論家が書くように多くのフェミニストは真っ向から彼と彼の作品を批判しない。そして何よりも不思議なことは、彼の作品中で「僕」の性的対象にされている当の女性の中にも、「ハルキスト」は大勢いるのです。

この「謎」を解明するのには、村上作品における読者の位置、つまり同一化の問題に照明を当てるべきではないでしょうか。村上春樹の読者、その大勢はおそらく男女を問わず彼の小説の主人公「僕」への同一化することを快を得ている。男性である「僕」目線で作品を読みすすめるからこそ、「僕」が女性を性的な視線で追う場面も実際に性的な行為に及ぶ場面も、別段違和感を持たないのではないか。これは男の僕によるあくまで推測ですが…。


では、村上読者の多くが男女を問わず、なぜそのように「僕」目線に立ちたくなるのか、「僕」の心性に惹きつけられるのか。
それは「僕」の心性が、そもそもニッチなものだったからではないでしょうか。サリンジャーの『キャッチャーインザライ』と度々比較されますが、村上作品に登場する「僕」に共通するのは、大勢を占める価値観やものの考え方にはなじめず(メインストリームには入れず)、かといってそれらに真っ向から立ち向かうということもせず(メインストリームに攻め込まず)、最終的には事態を変えることはできないのだけれど一歩は外れた小脇から「やれやれ」とスノッブに決め込む。
この「僕」が司る「ニッチ魂」とさえいえるものが、「ニッチにみなが大挙して押し寄せる」人々の心性をがっちりとつかんだのではないか。僕はそう思います。


タモリが「タモリ倶楽部」で繰り広げてきたことと、村上春樹が描き続けてきた「僕」の心性は、そういう意味で共通するのではないでしょうか。
でも、クリームパンのクリームはちゃんと真ん中にくるようにしておいてもらいたいものです。