いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

誰がための「オシャレな女」なのか?

連休の初日に伯父の家族がやってきた。伯父には三人の子ども、つまり僕のいとこが三人いるのだがその真ん中、今年14歳になる女の子がおもしろい。毎回会う度に、よくいえばオシャレな女の子に、悪く言えばケバイギャルに変容していくのだ。その変化は普段会わない僕には顕著に見える。最初はさりげない細部に変化の兆候があったのだが、このところはもう開き直ったか、僕に会うときだろうとお構いなしにその変化の度合いを見せつけてくる。


思い返せば僕の中学時代も、この年頃の成長というのは、まだ女子の方がその速度において男子を圧倒していた。夏休みの登校日や新学期の初日、一学期には黒々としたロングヘアーをなびかせていた清純そうなあの娘が、当時の僕ら男子には想像の付かない「一夏の経験」を経て、趣味の悪い金髪になっていたり。とにかくいろいろあるものなのである、14歳というお年頃。考えてみれば14とは中二であり、文字通り男子が中二病を患っていたそのころ、そんなしょーもない病に気にもとめず同年代の女の子はどんどんいろいろな成熟をとげていたというわけだ。


閑話休題。案の定、一昨日も彼女は前回から一段と「オシャレ」になっていたのである。それでついつい、僕が言ってしまったのだ。彼女の淡くそまった茶髪の髪を横目に「自分の女の価値に気づきやがって」、と。下ネタへの耐性などまるでないアットホームな伯父の一家が一挙に凍り付き、シーンと静まりかえった中にその子のビンタだけが僕の頬で鳴り響いたのは、言うまでもない。


伯父の車に乗ってのドライブの道程、こういうシャレを言うときは時と場合を考えなさいという至極当然の教訓を窓際で右頬の痛みとともに噛みしめながら、僕はそれって不思議だなというあるひとつの謎を思いついたのである(もしかしたら、彼女のビンタのショックによるものかもしれない)。


「自分の女の価値にきづきやがって」、これに似ているのでは「色気づきやがって」というのもあると思うが、この「女の価値」というのは何も普遍的なものではなくて、誰にとっての価値かというのが決まっている。ずばり、男にとってなのである。男に性的、社会的に喜ばれるものにこそ、「女の価値」が付与されるわけだ。「オシャレな女」には、男にとって性的、社会的に魅力があり、だからこそ「女の価値」があるのだ。


しかし、当然のことながらこの「女の価値」には、女性の側からの猛烈な反発が待っている(そしてその猛烈な反発は、僕の食らったビンタに集約される)。

一言で言えばそれはつまり、「別にあんたのためにオシャレしてるわけじゃない!」、ということ。中村うさぎ読者なら、彼女がエッセイなどでたびたび主張するミニスカートの件をご存じだろう。ある種の女の子はミニスカートを穿くのだが、それは何も太ももを見せて男の気を引こうとしているからではない、と中村は主張する。ミニスカートを穿くのは、ミニスカートを穿いて自分の足を長くかっこよく見せたいがためであって、別に男の気を引くこと(自己の「女の価値」の上積みすること)など、これっぽっちも考えてないのよ、というわけだ。つまり言い直せば、ある種の女性たちにとって「オシャレな女」になるということは、「自己実現」に他ならない。


長々と書いてきたが、このように「オシャレな女」には、男の側から「女の価値」という意味が付与され、当の女の一部にとっては「自己実現」が担保されているわけだ。そして、僕が不思議に思ったのは、こういうことである。


どっちが先だったの?


事態は、二つのものが同じ一つのものの上に乗っかった状態にある。「オシャレな女」の上に、男にとっての「女の価値」と女にとっての「自己実現」。いったいどちらが先で、いったいどちらが後から乗ったのだろう。


では「同時に乗った」、というのは考えられないか。もちろん確率的にはそういう場合もあるだろう。でも「オシャレな女」に関して言えば、それは考えにくい。というのも、「オシャレな女」というもの自体が、普遍的なものなぞではなく、きわめて恣意的に決められたものだからだ。美的感覚というのはたいてい、美を感じる主体本人の内属する時代、社会、共同体によって決められたものに過ぎない。もしかしたら、あなたにとって「オシャレでない女」が「オシャレな女」だった世界も、想像できなくはないのだ。


だから現にある「オシャレな女」は「虚構」にすぎず、男たちが「女の価値」として、あるいは女たちが「自己実現」の形として、偶然にも同じ虚構の「オシャレな女」を選び取った、ということはまずありえない。おそらく男と女、どちらかが先に来て決めた「決まり事」(=「オシャレな女」)に、後から来た者が追従しているはずなのだ。


果たして「オシャレな女」、その生成にはいかなるプロセスがあったのか。
男どもが自分たちの欲情する女(「女の価値」のある女)を「オシャレな女」に勝手に決めた後に、女どもはそれを「自己実現」だと錯覚させられているのか。それとも女どもが「これこそ私の「自己実現」」と決定した「オシャレな女」像に、後から来た男どもがそれこそ自分たちが興奮できるであろう「女の価値」が秘められているのだと、錯視させられているのか。


別に答えはない(というか出せないだろう)のだが、それって非常に興味深い謎。