「バスケットボールの映画だと思ったらなんだか難しい映画で途中で投げ出した」みたいなレビューを、本作を観た後にネットで目にしてしまった。自分の興奮に冷水を浴びせられるような気になったのだが、もしやと思って見ていくと、そうした「難解」「何が起きているのか分からなかった」というレビューが少なくない、というよりほとんどだったので、これはイカンと思ってここで書いておきたい。
ノーテンキな邦題もまずかったと思うのだが、本作『ハイ・フライング・バード -目指せバスケの頂点-』は単なるスポ根映画ではない。バスケット界隈が舞台で、主人公は新人NBAプレイヤーなのだが、彼らがバスケをプレーするシーンはほとんどない。皆無と言っていい。
本作はバスケットボールが舞台ではあるが、テーマはバスケではない。
舞台となるのはNBA。新人プレーヤーのエリックは、今からがっぽり稼いでやろうとしているときに、リーグがロックアウト(選手会とオーナー側での収益配分の割合を巡る交渉が紛糾し、試合自体が行われなくなること)に入ってしまう。主人公はそんなエリックのエージェントのレイで、お金に困窮する自身のクライアントを助けるため、ニューヨークの街を奔走し、各所方面との交渉に乗り出す。
スティーブン・ソダーバーグの映画っぽい、矢継ぎ早で意味が凝縮した会話劇のため、一度見ではなかなか消化しがたいのだが、本作は「バスケットボール界」の皮をかぶりつつ、その表層の奥に、白人/黒人、雇用者/被雇用者、支配者/被支配者、そして主人と奴隷という無数の二項対立を隠している。
エリックは困窮し、自分自身も上司(白人だ)に疎まれ首が危ない。そんな中でレイが各所方面を当たりまくるが、なかなか策がうまく行かない。レイがそうしている間に、まだ若く未熟なエリックは挑発に乗ってしまい、同じ黒人選手同士で諍いを起こしてしまう始末。
多くのアフリカ系アスリートがスポーツ界で活躍しているが、本作が批判的に暴こうとしているのは「どんなに黒人アスリートが頑張っても彼らを支配しているのは白人だ」ということ。結局これはお金をもっている側が勝つように出来ている出来レースだ。白人は「ゲームを支配するゲーム」に興じているのだ。
ボールを追いかけまわしているのは黒人、なのに、儲かっているのは白人。なぜそんな不平等が起きるのだろう? 難解なルックの本作が問いかけるのは、実は意外とそんなシンプルな問いなのだ。
レイがクライマックスで繰り出す(というか匂わせただけで効果が出てしまった)「ゲームを支配するゲーム」を転覆させる秘策は痛快だ。それはテレビ放映権という超弩級の既得権益を揺るがすオルタナティブであり、そして、それをネットフリックスが配信しているのが何よりも面白い。
「よくわからない難しい映画」などではない。本作は今まさに観られるべき映画なのだ。