いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

『悪の教典』蓮実聖司の目的、動機についての解説

2012年に映画化された『悪の教典』の原作本を最近読んで。

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈上〉 (文春文庫)

悪の教典〈下〉 (文春文庫)

悪の教典〈下〉 (文春文庫)


このブログにも(今思えば)拙い感想を書いたが、この作品にかぎっては、主人公の英語教師・蓮実聖司の理路整然とした思考経路が追える原作の方が楽しめたとともに、また映画版のある欠点にも気づいた。
今日はほとんどメモみたいな内容になるが、映画版だけではよくわからない部分を補足しておきたいと思う。

蓮実の目的は何だったのか?

まず蓮実の目的だが、多くの人がクライマックスの教え子を次々と「卒業」させていく場面が、彼の最終目的だったと勘違いを起こすのではないだろうか? 実はぼくもそうだったのだ。
それはおそらく印象的だった予告編の影響もあるだろう。

あるいは、彼はシリアルキラーであり、そんな彼に殺人の理由を聞くなんてナンセンスだ、と自分で思考をストップさせている人もいるかもしれない。
けれど、後述するが蓮実については、シリアルキラー=殺人自体が目的化した人間という評も当てはまらない。


彼の目的は、ミクロなレベルでは「教室/学校の支配」であり、もっとマクロなレベルでは、両親を殺害するときに独白しているが、彼が「命よりも大切なもの」として自由を名指ししている
このことについては、映画公開に先立ってBeeTVで放送された『悪の教典 序章』で実は説明されており、中越典子演じるスクールカウンセラーが、蓮実聖司の裏の顔を垣間見る。
この『序章』を見ていれば、少なくとも蓮実の行動原理は理解できるはずだ。

蓮実にとって殺人とは何なのか?

では、彼にとって「殺人」は何なのか。
それは、彼が米国留学中に出会った「正真正銘の連続殺人犯」クレイ・チェンバースとの対比で描かれる。蓮実と「趣味・殺人」で意気投合したチェンバースだが、彼は「殺すことそのものが愉しい相手にしか食指が動かない」のに対し、蓮実にとって殺人はあくまで「手段」なのだ。


このことについて、今から死ぬことが確定している相手に、正直に述べている。

「日常においては、誰もが、様々な問題に直面するだろう? 問題があれば、解決しなければならない。俺は、君たちと比べると、その際の選択肢の幅が、ずっと広いんだよ」

先述したように、彼は殺人自体が快楽なのではない。高い知性と他者への共感能力の欠如によって、問題解決に際して殺人さえもいとわない「選択肢の幅」を手に入れた、というわけだ。

大量「卒業」の目的は何だったのか?

そして、クライマックスの大量「卒業」について。
これについては、おそらく映画の一番の欠点なんじゃないかと思う。
というのも、映画だけではなぜ蓮実があんな大虐殺を行ったのか、いまいち伝わらないからだ。


小説ではここも、蓮実の思考が理路整然と説明されている。
きっかけは、蓮実が(原作では退学に追い込んだ/映画ではすでに殺害した)蓼沼将太のケータイを自分が持っているのを、教え子の安原美彌に知られたこと。
蓮実は文化祭の準備でクラス全員が学校に泊まりこむ夜に彼女の殺害し、自殺に見せかける計画を立てるのだが、あろうことかその現場をまた別の者に目撃されたことで、計画にはなかった遺体を1つ増やしてしまったのだ。
予定が狂ったことで蓮実はその思考フル稼働させ、「木の葉は森に隠せ」とばかりに、2人の殺人を隠蔽するためにクラス全員の大虐殺を計画したのだ。つまり、この虐殺もやはり彼にとってはトラブル解決のための「手段」だったのだ。


今回、「序章」を見るついでに本編ももう一度視聴してみたが、やはりこの部分の説明が不足している。
いちおう、2人の殺害後、屋上のベンチに静かに座る蓮実の画と、階下で楽しそうに文化祭の準備をする教え子たちの画を交互に見せているが、これだけでは隠蔽工作である、ということまでは伝わらないだろう。