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失った恋人に対してどう振る舞うかは、このブログのテーマの一つだが(大嘘)、ライアン・ゴズリング、レイチェル・マクアダムス共演による『きみに読む物語』をどうとらえるかは、もしかしたらその「振る舞い方」の違いに反映されるのかもしれない。
戦前のアメリカ南部を舞台に、ブルーカラーの青年ノアとバカンスで訪れた令嬢アリーの身分ちがいの恋愛を描いた作品。原作は、米国で1996年にベストセラーとなった『The Notebook』だ。
あらかじめ言っておくとこの文章はネタバレを含むが、どうせ知ってから観ても泣く人は泣くので問題ないと思う(謎の煽り)。
ド直球な恋愛モノに出る貴重なゴズリング
日本で公開された2005年の前年にちょうど『世界の中心で、愛をさけぶ』が大ヒットし、この作品も「純愛ブーム」の系譜で紹介された感じがする。
もちろん純愛の気がないわけではなく、登場人物に自分を投影した鑑賞者のナルシシズムを十二分に発露させる内容にはなっているが、それでも、どこかあっさりとした遊びの部分を設けているように思えるのは、ライアン・ゴズリングの冷めた存在感があるからだろう。
さすがに要所では感情的になるが、普段の彼のたたずまいが、おセンチになりすぎないようにストッパーになっている気がする。それでも、今の彼からすれば、わりとびっくりするぐらいドストレートな作品であり、そうした希少価値はある。
読み聞かせの“真の意味”とは(ここからネタバレ)
映画は「現在」の時制で老紳士が、若き日のノアとアリーの恋物語を老婆に伝え聞かせる、という入れ子構造になっている。
で、ここからが物語の核心なのだが、この老紳士こそがノアで、老婆は認知症を患い彼のことも認識できなくなった、現在のアリーなのだ。
つまり俯瞰するとノアがアリーに、自分たちのことを思い出してもらいたいがために、物語として読み聞かせているということになる。
ここがおそらく「いい話だわぁ」となる物語の核心なのだが、その一方で、どうも腑に落ちない部分もあるのである。
「思い出してもらいたい」という利己心
ぼくが違和感をもったのは「思い出してもらいたい」ということのエゴである。
映画では素晴らしい行為のように描かれるが、実はこれってすごくエゴイスティックなことなんじゃないか、という気もする。
その願望の背景にはおそらく、「いつまでも相思相愛でいたい」という願望が隠れている。相手が自分を伴侶と認知してくれないと、愛情が片思いになってしまう。「思い出してもらいたい」という願望には、片思いなることへの恐れがある。
エゴが強まるのは、クライマックス前の場面。彼女の認知症が治るという奇跡は描かれないが、アリーはほんの一瞬だけ“アリー”に戻り、ノアと束の間の"再会"を果たす。
けれどその状態は長くは続かず、彼女の記憶はまたリセットされ、ノアは彼女にとって「見知らぬ他人」に戻ってしまう。
それでも未練がましく訴えかけることで、彼はかえって彼女を怖がらせることとなる。つまり、彼女に苦痛を与えてしまうのだ。
映画の冒頭を振り返ればわかることだが、彼は読み聞かせに始まる一連の行動を、毎日つづけているという。
言葉はキツくなるが、それはちょっとグロテスクな光景だとは言えないだろうか。
アリーは肉体的には死んではいないが、ノアを認識できなくなったという点において、彼にとっては死んだと同義である。
彼の読み聞かせはつまり、恋人の遺体にゴーストを吹き込み、ゾンビとして蘇らせようとしているのに等しい。
見返りを期待せず「愛する」ということ
ここでわれわれは、この映画の導入部分でのノア自身による言葉に立ち返るべきだ。
私は どこにでもいる
平凡な思想の平凡な男だ
平凡な人生を歩み 名を残すこともなく
じきに忘れ去られる
でも1つだけ
誰にも 負けないことがある
命懸けで ある人を愛した
私には それで十分だ
ノアさん、ええこと言うてはりますやん。
ここで重要なのは、「愛しあった」ではなく、「愛した」としている点だ。相手からの見返りを期待せず、彼はただひたすらに「愛した」と言っているのだ。
デブでチビでハゲで名も無きわれわれ市井の男子は「それで十分」ではないだろうか? 異論はあろうが、そういう考え方だってできる。
であるならばなおさら、「思い出してもらう」行為は必要ない。
認知症を患った最愛の相手に忘れ去られるというのは、すこし特殊な「失い方」であるが、「失った恋人」に対する行動にはちがいない。
別れた彼女に気をもんで、LINEで「元気?」とか送っちゃうそこのお前。その行為は、本当に相手のことを気にかけているだけのものなのだろうか? もしかしたら、「俺のことも思い出してよ」というエゴが、含まれてはいないだろうか?
別れた相手が精神的・肉体的に「いま・ここ」にいなくても、変わらなぬ愛(エロスというよりアガペー)を注ぎ続ける――それが実は「真の純愛」だという考え方もあるのではないだろうか。