いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なに大人まで熱くなって「球数制限」はよくないとかいってんだ

もう何周遅れだよという話題なんですが、一応書いておきますよ。
http://blogos.com/article/59308/
済美 安楽投手の“余計なお世話”

まぁエモヤンのはリップサービスと言いますか、プロレス的感性からして、乙武さんと相対する位置に誰かが陣取っとかないと始まらないよというところもあろうと思われますが。

エモヤンの意見が、問題を矮小化しているのは明らかでしょう。「連投のきく地肩の強い」タイプの安楽投手に限っては、何百球投げても良かったのかもしれない。
けれど、みんながみんなそう出ないというわけではない。ケースバイケースなわけです。
これに関して、登板は監督に強制させられたんだとか、投手が自主的にマウンドに立ったんだとか、そのような「当事者」問題というのが出てきます。体罰問題のとき、桜宮の高校生らが怒ったのも、内情を知らない部外者の言うことは、どこまでいっても外野からの野次に過ぎないからでしょう。
だからこそ、先だってルールで「これ以上投げてはダメ」と決めてしまうべきなんです。ルールならば、ルールなんだからしょうがないとなれる。

この一方で、「肩を壊す自由」を訴える人も出てくるでしょう。

でも、野球なんて所詮は「球投げ棒打ち」です。

やらなきゃやらなくてもいい遊戯です。

一生野球が出来なくなったって、大した問題じゃありません。

大切なのは本人がどう思っているか、それだけです。


「野球が出来なくなるかもしれない」程度の理由で、他人の人生に口出しはできないと思う件。 : スポーツ見るもの語る者〜フモフモコラム

仮にもスポーツ専門のコラムニストが、「一生野球が出来なくたって、大した問題じゃ」ないと書くのには目を疑います。血のにじむような努力をして甲子園にたどりついた高校球児に、「人生は野球だけでない」というのは、フラれた男に「女は星の数ほどいる」といってやることに匹敵するほど、説得力がない。
ここで「大人」がするべきは、「今」に情熱を傾けすぎて不安定になっている高校生のブレーキになってあげることでしょう。それを、なに熱投だとかなんだとほだされ一緒になって熱くなっているんだという話です。


日本のアマ野球での連投酷使というのは、もはや野球ファンの間では公然の秘密になっています。
先のWBCでは公式ルールになっていますし、大リーグでも半ば球数が制限されるのが当たり前になっている。そのような世界の大舞台が球数に目を光らせているのに対し、なぜ日本のアマでは平然と見過ごされているのか。
身もふたもない話ですが、そこには資本が関係しているんじゃないでしょうか?
「肩は消耗品」とは言いますが、結局その「消耗品」を買っているのはプロ野球球団なわけです。買ったものである以上、大事に使いたいですよ。
一方、アマがなぜそこでルーズになれるのか。それは、こんな言い方をするのはアレですが、酷使しようがしまいが高校生3年で、大学生は4年でどこかにいってしまう。出て行かれる前に、使って勝てるものならできるだけ使ってまえという発想があるんじゃないでしょうか。これは理不尽ではない。インセンティブを考えたら至極まっとうな考え方です。
だからこそ、ルールでそれを禁止しないといけない。


球数制限に反対している人の言い分もわかります。球数制限のルール化されれば、松坂大輔田中将大斎藤佑樹のような甲子園のマウンドで何百球を投げ抜いた「怪物」たちは、そのルール上出現し得ないことになります。それが名残惜しいんじゃないでしょうか。
けれど、慣れは怖いもので。ぼくは、批判殺到の中で球数制限ルールが施行されたとしても、数年後にはほとんど誰も文句を言っている人はいなくなっているんじゃないかと推測します。

そして何より、球数制限を設けることは、高校生の安全を考えてクロスプレーでのタックルを禁止した高野連の主張に、一貫性を持たせることになります。


なんだかんだいって、今回のWBCもあれだけ盛り上がったんです。
「よい大人」は、"今このとき"を輝く高校生に目を奪われるだけでなく、「この投手の5年後、10年後に大舞台のマウンドに立つ姿もみてみたい」と広い射程で物事を捉えるべきだと思うのですが、いかがでしょうか。