いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

信仰とはなにか? 〜『チェンジリング』(2008年)批評〜


夫と離婚し、女手一つで息子を育てるシングルマザーのクリスティン(アンジュリーナ・ジョリー)を、ある日とつぜん悲劇が襲う。息子のウォルターが失踪したのだ。絶望にくれるクリスティンのもとに、5ヶ月後警察からウォルター発見の報が届く。喜び勇んで駆け付けた彼女だったが、そこにいたのはウォルターとはまったく別人の子どもだった。これは、警察の腐敗と猟奇的な殺人事件に翻弄される母子の物語。
ヨーロッパの伝承「取り替え子」をその名に持つ本作は、1920年代末におこったゴードン・ノースコット事件をもとにしている。
事件について言及したウィキペディアのページを読むと、本作は史実に忠実であることが分かる。ストーリーはとにかくわかりやすく、観て意味が分からないという人はあまりいないだろう。それでも退屈しないのは、イーストウッドの演出と、あと話の語り口の妙にあるんじゃないかと思う。また、ジェームズ・J・ムラカミによる20年代の美術もなくてはならない。この後にイーストウッドはFBI初代長官のフーヴァーに焦点をあてた『J・エドガー』を撮ることになるが、あの作品でもモダンな美術セットは、重要な「名脇役」だ。


さて、そんな『チェンジリング』であるが、これは信仰の物語なんじゃないかと思った。
ただそれは、キリスト教といった世界宗教のことではない。たしかに本作ではジョン・マルコヴィッチ演じる牧師がクリスティンを戦いへ導く重要な役割をしているけれど、そういうことではない。これはもっと普遍的な、「信じること」を巡るストーリーだ。

ウォルター失踪事件での捜査の怠慢と、それを無理やり解決したようにみせかけるために別の子をあてがい、都合の悪いことを言うクリスティンを精神病院になかば監禁したことが白日のもとにさらされ、ついに警察を弾劾するための公聴会が開かれることになる。

このとき、クリスティンは多くの支援者らを獲得している。けっして彼女はひとりで戦っているわけではないのである。
けれど、そんな中でも彼女はある一点において孤独だ。孤立はしていないが孤独なのだ。

それは彼女が、ウォルターがまだ生きていると信じているという点においてだ。彼女の周りの人間は、暖かく彼女を支援するが、それはあくまでも彼女が息子を凶悪な殺人者に殺された悲劇の母だと考えているからだ。だが、クリスティン本人は息子の生存を、まだ死体が見つかっていないというほとんどただ一点において、信じ続ける。彼女と彼女のまわりの人間の間には、明確な対立にまでならないものの、実はそこにかすかなすれ違いがある。

映画はここでも史実に忠実で、ウォルターがどこかでまだ生きているという希望も仄めかさないが、その一方で死んだという絶望もクリスティンには与えられない。ウォルターを含む3人の少年を殺した罪で死刑になるノースコッドと面会したとき、彼女は悲痛にことの真相を問いただすが、ノースコッドには最後まではぐらかされてしまう。

この直後、ノースコッドが看守に連れて行かれたため、あたかも牢獄に彼女の方が閉じ込められているかのように見えるカットがあるが、このシーンは、クリスティンが不可知という名の牢獄の中で苦悩し続けていることを暗示するかのようだ。暗闇で彼女のDid you kill my son ? だけが繰り返し、空しく響く。
ぼくはこれこそが信仰だと思った。

哲学者のジジェクが、面白いことをいっている。宗教原理主義者と科学者というのは、正反対の人間のようでいて、実は似ているというのだ。
なぜか。
両者ともに、真実を「知っている」と思い込んでいるからだ。本当の信仰者はそうでないと、彼はいう。
「知らない」けれど、信じ続ける者こそが、真の信仰者なのだと、ジジェクはいうのだ。この映画でウォルターの生存を信じ続けるクリスティンの姿は、まさに真の信仰者のそれに近似する。


普通こうした話では「愛する人の死を受け入れること」こそが、主人公の成長には必要なのだ、というメッセージが語られるものだが、この映画はひと味ちがう。
生きている可能性がある以上、生きていると信じつづけていく。それは、現実逃避というネガティブな言葉では片付けられない、もっと強くポジティブな営みだ。
これは、信仰という、本来は強靭な精神を必要とする営みについての映画だ。