人間のかわりにロボットが格闘技をくりひろげられているという2020年を舞台に、父子が戦いをとおして絆を取り戻していく近未来SF。
子ども向けの映画やアニメ、マンガというのは「おもちゃの広告」である。マーチャンダイズというやつで、わかりやすくいえばコンテンツがヒットしたからおもちゃが発売されるのではなく、おもちゃを売るためにコンテンツが制作される、ということだ。仮面ライダーがなぜベルトを腰に巻き付けているかを考えてもらえばわかることだろう。
この映画『リアル・スティール』も、劇中にいくつも登場するロボットのマーチャンダイズであることが、よくわかる。
そのような産業構造をとやかく言う気はない。しかし「広告」には「広告」としてターゲッティングというものがある。「おもちゃの広告」である以上この映画も、その受け手は子ども、もしくはその親を想定されており、したがってよくいえば安心して観られる、悪くいえばユルい作品であるということは、まえもって押さえておくべきかもしれない。
とはいえ、この映画には、子どものおもちゃの「出資者」であるお父さんお母さんが観たら、顔をしかめるんじゃないかという場面が数々あった。
というのも、ヒュー・ジャックマンが演じる父親チャーリー、こいつがクズぽよすぎるのである。
物語のはじめで、彼は借金の返済に困り、長く離れていた子どもを親戚に売ってしまうのだ。この時点でかなりクソい。2ちゃんで鬼女に叩かれること必至である。
では、ロボットの操縦者として彼が優れているのかというと、それも微妙だ。彼に売られた息子というのが、この手の映画にありがちな小憎たらしいガキなのだが、それでもこの映画に関してはこの子の言っていることの方がチャーリーの言っていることより何倍も理にかなっていた。息子を売った金で買った名機を駆り、彼は実戦経験もないままいきなり強敵との試合にエントリーし、やはり予想通り惨敗する。弱い敵から倒してこつこつ経験を積もうという息子の言い分の方が、よっぽど理論的だ。この後もチャーリーは、終盤でまた目先の大金に目がくらんでまちがった選択をしかけ、危うく息子に止められる始末で、どうも思考が近視眼的すぎだ。
もっともこういう映画は、ダメ親父が徐々に成長していって最終的によき父親になる、という大団円を迎えるものだ。この映画も現にそうなるのだが、それにしても、最初のクズぽよ具合がすさまじすぎるのである。円でいうと、そんな角度で書き始めて本当に円の始点にもどってこれるの?と心配になってくる。
もっとも、見るべきところがないということもない。とくに映画の冒頭、チャーリーはアメリカ中部の田舎町のような田舎町に、ロボットを乗せた巨大なトレーラーを運転して訪れる。夜の移動遊園地(のようなもの?)のネオンだけが光っていて、ここだけはいい雰囲気だった。また、そのあと彼はロボットと闘牛が戦う興行を開くのだが、ぶっちゃけこの最初のロボット×田舎という組み合わせ、いってしまえばレトロフューチャー感覚みたいなのは、嫌いではなかった。ただその反面、これだけロボットが発達した設定の2020年代なのに、ロボット以外のほとんどテクノロジーが発展してないというのは、どういうことなんだ?
しかし、「おもちゃの広告」であるこの映画一番の問題は、当の「おもちゃ」にあたるトランスフォームしないトランスフォーマーみたいなデザインのロボットたちが、ぜんぜん魅力的でないということだ。とくに、主人公たちの最終的な愛機となる「ATOM」だが、こいつがほんとに地味すぎる。もちろん、元々スパーリング用だったという設定を鑑みてのデザインなのだろうが、子どものおもちゃとして考えれば、主役なのにこいつは絶対人気がでないだろう。
ロボットデザインは全般的に単調だ。せっかくの設定なのにオーソドックスな人型のロボットしかでてこない。たとえば千手観音みたいに何本もの手で連打してくる敵みたいなのも、作ればいいじゃないか。人型しか認めないというルールなのかといえば、劇中には頭が二つあるロボットも出てくるのだからそれでは説明がつかない。だいたい格闘技のロボットで急所の頭を増やしてどうするんだよ。
ということで、いろいろ思うところを書いてみたが、子どもでもなければ子どもをもつ親でもないぼくからすれば、ヒュー・ジャックマンがくそ真面目な顔をしてロボットの必殺技をシャウトしているところが、この映画一番の見所なのであった。