いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

なぜ幼児2人は死ななければならなかったか 『子宮に沈める』が想像を掻き立てる“余白”

 

子宮に沈める

子宮に沈める

  • 伊澤恵美子
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2010年に大阪2児餓死事件という痛ましい事件が起きた。 大阪市のシングルマザーが、自宅マンションに3歳長女と1歳長男の2人を2ヵ月弱にわたり放置し、餓死させた事件だ。

本作『子宮に沈める』はこの事件を元にしているが、特色はその「カメラワーク」にある。いや、正確には「ワーク」と言えないかもしれない。というのも、本作のカメラはほとんど動かないのだ。

カメラが切り取るのは全編、2児が餓死する現場となるマンションの部屋の中だ。しかも、考え抜かれたようなカットではない。それはどちらかというと無造作に置かれたようなカット。それはまるで、置いていたビデオカメラの録画ボタンを誤って押してしまい、偶然撮れたような映像の連続なのだ。

映画は、そうした「無造作に切り取られた家庭の風景」の連続だが、もちろん意図されたものである。

映画の冒頭では、愛情あふれる母親が慈しむように2人の子どもを育てているのだが、その愛情が徐々に変容を来していく。その変容の“ヒント”は、常にカメラに映っているのだ。

例えばそれは、フローリングの様子でも分かる。最初は掃除が行き届いていたきれいなフローリングなのだが、母親の精神が乱れていくにつれて、おもちゃやゴミが散見されるようになっていく。それも突然ではない。徐々に徐々に増えていくのだ。母親の精神状態の悪化を表していくように。

映画にナレーションは付かず、劇中にもそうした「変化」に触れる人は誰もいない。唯一、映画をつぶさに観察していた観客だけが気づくことのできるような、些細な変化の連続が、破滅的な結末へとつながっていく。

本作はそうした、観客の「想像」に委ねる箇所が幾重にもある。それがもっとも効果的に使われているのは、母親が子どもたちを見放し出ていこうとするシーンだ。母娘が会話しているのだが、母親の顔は見えない撮り方をしている。それゆえに、母親が、犠牲者となる娘にどんな表情で語りかけているかは、観客の想像に委ねられる。

後半は、年端も行かない子ども2人のみがずっと出演するという、ある意味で異色な映画となっている。何も知らずに取り残され、母親の帰りを待ち望みながら徐々に衰弱していく子どもたちの様子はあまりに痛ましいが、同時にこれって相当大変だったんじゃないだろうか? とも感じ、事実、下記の監督のインタビューを読んでも分かるが、未就学児の「演出」は相当大変だったようだ。 

topics.cinematopics.com

泣いても撮影だからと厳しくするしかなくて。途中から子供を虐待してるような気すらして来て。
育児放棄の事件をきっかけに製作を決めて、この作品を観て考えて欲しいと言いながら現場で子供を虐待してたら意味がないし、人に伝わらないですよね

おいおい、という笑えないブラックジョークも飛び出しているが、その介あってか、そうした撮影上の苦難を感じさせない、子どもたちが自然な演技を見せているところも必見だ。