いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

【映画評】2つ目の窓


奄美大島大自然を舞台に、 高校生の界人と杏子が、生(性)と死、自然と人間といった境界線で揺れながら、すこしずつ大人になっていく姿を描く。


「支配権」が放棄された不思議な映画
河荑直美監督の映画は初鑑賞なのだけれど、非常に特殊な撮り方をする人だなぁと思った。どう表現すればいいかわからないのだけど、スクリーン上での自身の「支配権」をあえて放棄している、という印象なのだ。多くの映画監督がスクリーン上での「専制君主」を気取る中で、この監督はその全く逆を行っているのだ。
カメラに映るもの――それが人であれ動物であれ物であれ――自体の「そのまま」を最大限に尊重しているような撮り方だ。それゆえ、映画はフィクションなのだけど、画面にはドキュメンタリー作品のような独特の緊張感がある。
作中ではあるショッキングな現場もとらえられているが、観客にショックを与えるという意図はそこには嗅ぎとれない。客観的にみればショッキングでも、撮る側が「そのまま」として記録しているのだ。その撮り方は衝撃度を減じさせるどころか、衒いがないゆえにかえって凄みをましている。


美しくもあり残酷な大自然
主人公たちの前に広がるのは、両極端で混じり合うはずのない二つのものが、実は調和的、相補的関係な関係を持つ、美しくもあり残酷な大自然の姿だ。
例えばそれは性交だ。性交は自分ではない他者とでなければできない。他者を受け入れ、侵食される行為なのだ。けれど、その「される」という受動性を受け入れられたとき、そこには一人では到達できない快楽が待っている。
例えばそれは死だ。生者にとって死は恐ろしいもので、また悲しむべきものだというのは一面的な考え方で、生きとし生けるものは必ず死ぬ。そして死は、誰かの生と必ずつながっている。
普段は生命にとって心地よい海も、台風で荒れ狂いあらゆるものを破壊し尽くさんとする海も、同じということ。
父親と愛しあったかつての母親も、いまは他の男と寝る母親も、同じ母親であるということ。
そうした、二元論をどちらも包み込む自然を、本作は描いている。


サスペンス要素の必要性に疑問も
先ほど「ドキュメンタリー作品のような」と表現したが、ではドキュメンタリー作品でいいではないかという気もしてくる。ストーリー映画であることの必然性に疑問を抱かせるのは、冒頭の不審死だ。結局もって、この映画においてあの出来事がどれだけの意味を持っていたか? ということを考えると、首を傾げざるを得ない。
また、先に書いたように本作は生と死が対極にあるものでないという死生観を描いているが、この不審死はそれとも食い合わせが悪い。だって、生と死は循環し、死は必ずしも悪いものではないといっているのだとしたら、極端な話、不審死だってそれでいいじゃない、ということになってしまう。
ということで、予告編でも強調されるような本作のサスペンス要素には、その必要性には疑問符がつく。



けれど、こんがり日に焼けた主人公の2人が瑞々しさがすごくよくて、都会の水に染まらない原色の少年少女たちを演じ切っている。とくに黒々と焼け、その点大きな瞳の中の白目が目立つ吉永淳は可愛い。彼女と、父親役の杉本哲太、母親役の松田美由紀の3人の自然体な空気感は、観ていて心洗われる。


クライマックスで、界人と杏子、そして自然は本当に「融合」する。そのあられもないシーンは、一歩間違えたらギョッとする画なのだけれど、いや、半分はギョッとしたのだけど、それも猥褻だからというよりも、彼らの「そのまま」を描こうとしているからだろう。
好き嫌いはわかれるだろうが、好きにしろ嫌いにしろ、観ておいて損はさせない一作だろう。