いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

“世間”を我々の手に奪還せよ

最近、「世間」についての議論をよく見る。
ある事象について少数派に属する人を諭すとき、「私は×××を理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」という論法を使う人が、「世間」にはいるんだそうだ。直接的な議論は避け、そこにはない外部の「世間」に「×××」への理解のない任意の他者を設定して、「世間体」を保つという名目において相手を諭すわけだ。
僕自身、誰かからこんな妙ちきりんな論法で説得やら批判を受けたことないし、電気自動車走ってますよなこの21世紀現在においても、そんな「世間体論者」(ここではこう呼ぶ)がいるのかと怪しむところはあるのだけれど、そういった僕のような「世間体論者なんていないでしょう」と考える人間も実は少数派で、「世間体論者が未だにウジャウジャいるよ!」と考えるネット上の多数派の人たちからは、「私は「世間体論者なんていないでしょと疑うあなたみたいな人」がいることを理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」とお叱りのの言葉を受けるのかもしれない。



こういうしょーもない話はさておき、この「世間」にまんま「アウトソーシングされた差別」と「世間体論者」が、今指弾されているわけだ。

しかし、スラヴォイ・ジジェクにいわせれば、それは差別感情に限ったものではない、広義の「信仰」全般に言えることなのかもしれない。

ラカンの多くの読者は見落としているのは、<知っていると想定される主体>というのは、副次的な現象であり、ひとつの例外にすぎない。つまりそれは信じていると想定される主体という、より根本的な背景の本質的特徴である。ある有名な人類学的な逸話によれば、迷信的な信仰について(たとえば自分たちの祖先は魚あるいは鳥だという信仰)をもっているとされる未開人が、その信仰について直接的に尋ねられた際、こう答えたという。「もちろんそんなことは信じていない。私はそんなばかじゃない。でも先祖の中には実際に信じていた人がいたそうだ」。要するに、彼らは自分たちの信仰を他者に転移していたのである。



ジジェクラカンはこう読め!』p58

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!


無論、この構造はここでは終わらないだろう。彼ら現代の「未開人」が迷信的な信仰を彼らの「先祖」へアウトソーシングしているように、我々「文明人」も、彼ら同時代の「未開人」たちに迷信的な信仰をアウトソーシングして、「ウルルン滞在記」とかを心ときめかせ眺めているわけだ。これをサイードというおっさんがかつて、オリエンタリズムと呼んでいた。
これは、別に文明というマクロな規模には限らない。
昭和ブームというのが近年あるけれど、その代名詞的映画の『always』を見て我々が涙を流すとき、そこには、着々と積み上げられていく東京タワーに象徴されるような希望に充ち満ちた在りし日の昭和という時代への、登場人物たちの期待と憧れが描かれているけれど、実際にかの時代を生きた昭和の人々が希望を持っていたというのはもはや知るよしもなく、意地悪く言えば結局は「懐古厨」と呼ばれる平成人が、堤真一吉岡秀隆薬師丸ひろ子らが演じる「昭和人」たちに、昭和という希望への「信仰」を委託しているだけなのだ。
ジジェクは、こういったアウトソーシングの有り様を「「ポスト・イデオロギー的」とみずから称している時代における、信仰の支配的な状況」だと考えている。



つまるところ、この世間体論者たちの「信仰」、「私は×××を理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」という文言によって、「×××」の側が諭されるときに憤りを覚えるのは、先にも書いたとおり相手の口にするこの「世間」というのが、きわめて実在性の危うい、根拠の薄そうにみえる存在だからだ。

だから、「世間体論者」から「世間」をはぎ取れ!そして「世間」に頼らない議論をさせろ!
ネットでの大勢を占めるのは、おそらくここである。



ではだ。
反対にこの「世間体論者」によって、「私は×××を理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」と「×××」の側にある人たちに向けて放たれたとき、腹立つことはあれど、そこでその文言がはたしていた「機能」はなんだろうと機能主義的に考えてみたくもなる。
そもそも、「世間」へ差別や嫌悪をアウトソーシングするにも、それなりの「原資」が必要となる。なぜに「×××」は、「世間体論者」によって「世間」というものを迂回して否定されるのか。そこには「世間体論者」らによるある「類推」が必要だ。それはつまり、「私でも×××に否定的なんだから、世間にはもっと否定的な人もいるはずだ」という類推だ。

迂回の経路をたぐり寄せていくとその先には、結局「世間体論者」自身の対象「×××」への否定的感情の存在が不可欠なわけだ。


そうなると、「×××」の側としては、「いやあんたの言ってる世間ってなんだよそんなもんねーよ。結局あんた自身が×××のこと嫌いなんじゃないかよ」と、世間体論者が纏う「世間」という虚構の鎧を、はぎ取ってみたくもなる。はぎ取ったそこに、何があるか。おそらくそこにあるのは、マジョリティに同調しないマイノリティへの単なる同調圧力や、論理整合性なんてこれっぽっちも必要としない、剥き出しの嫌悪感だけだ。

はっきりいおう。この嫌悪というのは、どうしようもなく凝り固まった個々人の価値観であって、論理的に破綻していようがなんだろうが、覆ることはほぼない。人間、論破されようが罵られようが、「嫌なものは嫌」なのだ。「世間」という逃げ口上を失い、はしなくも自分の「×××」への嫌悪が白日の下にさらされた以上、「世間体論者」とその対象となる「×××」は、折り合うことの決してない熾烈な全面戦争に突入することとなる。


言っておくが、「世間論者」から「世間」をはぎ取ることができるのはネット空間という特異空間であるからだ。今までも、そしてこれからも会う可能性が極めて低い人間にだからこそ、口汚く罵りあえるのだ。家族でも学校でも会社でも、社会では通常、継続的な人間関係の営みがあって、そこでもし「世間」というコーティングをはぎ取られ、「×××」が嫌いという価値観が剥き出しになるということは、どう考えてもその継続的な人間関係に壊滅的な打撃を与えることとなる。


逆に言えば、世間体論者によって持ち出される「世間」は、「世間体論者」と「×××」の両者が、わかりあうことが絶対に不可能な価値観のレベルで激突しないよう、いわば「緩衝材」として機能していたともいえる。



では、「世間体論者」の発する「私は×××を理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」というマジックワードに、「×××」に代入される側の人間は、これからもモゴモゴと口ごもっているしかないのだろうか。


それはそれでおもしろくない。第一、不公平ではないか。


しかし、ここまで書いてきたとおり「世間」という鎧の裏に実はひそむ「嫌悪感」を表沙汰にするのも、よろしくない(もちろんあなたが相手と継続的な人間関係を持つ気がないなら話はべつだ)。


僕はだから、もっと別の方法を提案したい。それは、この「×××」の側の人間も同じように「世間」を持ち出す、という提案だ。具体的に言えば、「私は×××を理解しているけれど、世間にはそれが通じない人がいるから気をつけた方がいい」と言われたとき、すかさず「いやでも、今や世間は×××を理解してますよ」と返すわけだ。


そもそも「世間」なんて根拠づけられるような代物ではないのだ。「×××」の側がそれを「奪還」したって、まったくもって問題ない。


かくして、相手とあなたの間で「×××への理解がない世間」と「×××に十二分の理解がある世間」との二つに、「世間」が二分される。このことにより、相手とあなたは妥協不可能な価値観のレベルでの「全面戦争」に突入することなく、二つの「世間」のまさに「代理戦争」によって、その急場をしのぐことができることとなる。

しかし、この「もう一つの世間を引き合いに出す」戦法を「×××」の側が使うことには、もっと大きな効用がある。それはつまり、根拠のない「世間」なんて言って議論を組み立てていること自体、なんてバカらしくくだらないことなんだということに、そのうち相手が気づくという効用だ。


僕はけっこう本気で書いているんだけれど、はたしてどうだろうか