いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

彼らは「社会に何も期待して」いなかったのか?

si-noさんの興味深い記事。厳罰化と社会的連帯の強化、そのどちらが犯罪抑止に効果的かの計量結果の一例となるのかもしれない、おもしろい事実だ。

どのような人間が犯罪を犯しやすいか?という分析結果なのだけれども「社会に何も期待しておらず、また社会からも何も期待されていない20歳から40歳の財産も住居もない貧困状況にある男性」というフレーズを読んだ瞬間に、マツダ無差別殺傷事件の容疑者や加藤容疑者の顔が脳裏を過ぎってしまった


社会に何も期待しておらず、また社会から何も期待されていない人間


大筋ではなるほどそうなのかもしれないと合意しかけたのだけれど、「何も期待しておらず」のところに、どこか引っかかりをおぼえた。両事件の容疑者は本当に、社会に何も「期待」を持っていなかったのだろうか。

広島・マツダ工場の無差別殺傷事件で、殺人未遂などの疑いで逮捕された元期間従業員引寺利明容疑者(42)が身柄を確保される直前、知人に「わしは秋葉原を超えた。マツダへの長年の恨みを晴らした。死刑になるじゃろう」と電話していたことが28日、分かった。


http://www.47news.jp/CN/201006/CN2010062801001002.html


両事件ともに一般の僕らからはさっぱり動機はわからないことなのだけれど、とりあえず共通しているといえるのは、二人とも「自分がとんでもないことをしでかす(しでかした)」ということに、ひどく自覚的であったということだ。
彼らは単に「社会に何も期待しておらず、また社会からも何も期待されていない」ことにより、自暴自棄になり凶行に至ったわけではない。自分がそうした行動を決行したことで、自分の話題がメディアを独占し、不可解な事件を前にして自分の固有名を主語とする動機の言説が大量に流布すること、そのことも織り込み済みだからだ。いわば、「動機」そのものを欲している。
上に引用した共同通信の記事にあるような発言を目にして、誰しもがある種の怒りや呆れと、無意味な死を遂げざるを得なかった被害者そして遺族への哀れみと同情を禁じ得ないだろう。だがそれら「反応」は、まったくこの発言が予期して「期待」していたものなのだ。



自分のとった行動に、憶測だろうとなんだろうと「意味」が「反応」として自分に返ってくる。そのことに自覚的に起こした凶行には、ある種の「期待」があったと言えないだろうか。
もちろんそれは、「社会に何も期待しておらず、また社会からも何も期待されていない」という局地にいたった彼らが、最後の最後になけなしの意志をもってとった出来事、なのかもしれない。


しかしそれが、何らかの社会からの「期待」の断絶によって引き起こされたというより、最悪の形で社会へと接続した「期待」の現れであることは、間違いないのだ。



彼らはおそらく、社会的存在としては元の世界にもう二度と戻ってこれないだろう。よく言われているとおり、彼らの殺戮は、社会的自殺でもあるのだ。故知らぬ赤の他人の肉体を巻き添えにしての。


ここから予防策としての議論は、実際の自殺に似てくる。
実際のところ我が国での自殺の主要な原因は疾病にあり、流言しているような「復讐としての自殺」、「自殺をすることそのもの」で生前には遂げられなかった敵への「制裁」を目的とした自殺、そういった誤解を恐れずに言えば「期待を込めた自殺」というのは思いのほか少ないはずなのだ。


だがそれでも「自殺を悪とするべき」という意見や「自殺をメディアが大々的にあつかわないようにすべき」という意見は後を絶たない。


これら方法は、こういった「動機を欲する」通り魔に適応することはできるだろうか。
すでに事件が悪として社会に登録された以上、前者の手段はとれない。僕らが望みうるのは後者の手段、有り体に言えば事件の徹底的な「無視」なのだけれど、マスメディアにとって「無視」というのはそれ自体語義矛盾的な行為なのだ(一部、「都合上」ネグレクトする事象はあるものの)。
それに、倦怠感あふれる正常の幕を突き破って恐るべき異常が登場したとき、僕らが「無視する努力」をまっとうするのは、途方もなく難しいことなのだから。