いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

礼儀礼節の失われた時代・アイロニーによって全体化した「本音」

http://anond.hatelabo.jp/20090501193134

ここ最近の増田は、元増田さんの大いなる勘違いが火だねとなって膨張するという手合いが多い。この人の場合、大学院へ行ったことに対する選民意識のようなものが妙に透けて見え、そのことが火のついた要因の一つのようだ。しかしそれを鑑みても、この人は被害者の側にいるように僕には思える。むろん、相手の女性も被害者なのだが。

では誰が加害者か。社会である。いや、こう書くとものすごく熱っぽい童貞中坊の戯れ言のように聞こえる。もう少し詳しく言おう。社会と言ってもそれは、礼儀礼節を失った社会、今風に言えばポストモダン社会のせいだ。


儀礼節というと固いがそれは、有り体に言えば「コミュニケーションの型」。その人の言動を「本音と建て前に分節する装置」だ。「あの人には本音と建て前がある」というと、ものすごく陰険で、うす汚く、腹黒いというイメージがつきまとうが、そのイメージこそがポストモダン的な「本当の自分たれ」というイデオローグに毒されている可能性が高い。ここで毎度お馴染み、ジジェクを引こう。

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!

ある子が、日曜の午後に、友達と遊ぶのを許してもらえず、祖母の家に行かなくれはならないとする。古風な権威主義的な父親が子どもに与えるメッセージは、こうだろう。「おまえがどう感じていようが、どうでもいい。黙って言われた通りにしなさい。おばあさんの家に行って、お行儀よくしていなさい」この場合、この子の置かれた状況は最悪ではない。(・・・)「ポストモダン」の非権威主義的な父親のメッセージのほうがずっと狡猾だ。「おばあさんがどんなにおまえを愛しているか、知っているだろ?でも無理に行けとはいわないよ。本当に行きたいのでなければ、行かなくてもいいぞ」。
スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』160p

こんな風に言われて、「行きたくない」と言えるガキがいるだろうか。
僕らは礼儀礼節、いわゆるコミュニケーションの型のようなものが、失われかけている時代を生きている。でもそれは、「常に自分の本音で生きていける」という自由な時代に移り変わったことを意味するのではない。まだ型のあった時代、建前という防波堤があったからこそ、本音を懐に確保しておくことができた。建前をつくる余地がなくなった時代、むしろ僕らは本音が全体化してしまったことによって、より強く拘束されているという逆説の中を生きている。
この事態は、もしかすると浅田彰が80年代に「のりつつしらけ・しらけつつのる」を言い出したころから始まっていたのかもしれない。ネット上に渦巻くのは、本音と建前がお互いを緩衝し合うように配置された、まさにアイロニカル(分裂した)言説たちだ。でもそれは、本音と建前の間にあったはずのしきりをとってしまい、本音が言説空間全体に流れ出て行ってしまった、という風にいえなくもない。本音が全体化してしまったことで、僕らは自らの言動に、よりいっそう(本心から)責任を感じなければならなくなったのだ。


だいたい、「本当の自分」をさらけ出して他者とわかり合えるなんて、限りなく怪しい考えだ。第一、自分でさえ自分の本音なんてわからないかもしれないのに、相手が本当に思っていることをくみ取るなんて、本当にできるのか。乱暴に言えば、建前の部分でコミュニケーションをとっていたからこそ、公共性が生み出されていたのではないか。「本音で語り合えばわかり合える」というのは、狭っくるしい、ごくごく限られた共同体内でのジャーゴンでしかありえないのではないか。


儀礼節、コミュニケーションの型が失われるというのは、信号のない交差点のようなものだ。相手が本当はどのように思っているかを考えあぐねること、それは信号もウインカーも手信号の概念もない交差点で、相手がどの方向に行くか「推して図る」ようなものだ。
この問題は、「相手の真意」を図りかねているうちに、元増田さんは耐えきれなくなりアクセルを踏んでしまい、あげく相手の女性との衝突を巻き起こしてしまったという「事故」、と言える。

「面と向かってお礼をするのが常識」ってのはお礼を「する側」の常識なんだよ。「される側」には一切無関係。
http://anond.hatelabo.jp/20090501215820

このコメントは恐ろしく正しい。僕に付け加えることがあるとすれば、「される側」が「面と向かってお礼をするのが常識」ということを思い抱かなくても、「常識的」に「する側」がお礼をしてくるのが、かつては当たり前だったのだ。そしてその時代こそ、本音と建前がうまく峻別され機能していた時代なのだ(もちろん、なかには「交通ルール」について無知であったり、それを守らなかったりした者もいただろうが)。


私事であるが、僕は結構頻繁に「すいません」「ごめんなさい」を言う。電車で、バスで、ちょっと触れたぐらいでもできるだけ言うことにしている。別に自分が悪いということでもないため、本心ではさらさら「すいません」とも「ごめんなさい」とも思っていない(場合もよくある)。こういうと、「恥を知れ」、「おまえには自分がないのか」と言う人もいるかもしれない。
ではもし、本心のおもむくままに僕がムスッとしていたら、どうなるだろう。そして相手の「本音」が、「こんなムカつくヤツ、傘の先で刺しちまえ」ならどうするんだ。そんな本音、自分の「命」を危険にさらすほど守らなければならないものか。僕はそうは思わない。そんな安っぽい「本音」、最初から捨ててしまえ。