いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

嫌煙派と喫煙派の仲のよさについて

http://anond.hatelabo.jp/20090504164741とそこで論題となっているこれ

僕はそもそもタバコを吸わないし、喫煙や受動喫煙といったものが、本当のところいったいどれくらい人体に影響をもたらすのかなど、平均以上の知見を得ているわけではない(正直に言えば、一度知ろうと頑張ってみたものの挫折した。今や状況は喫煙派、嫌煙派入り乱れていて、誰のどの情報をどの程度信じればいいか、もはや判別つけがたくなっている)。
ただ僕は、目の前に広がっている現実として、禁煙ファシストをはじめとする「禁煙を推し進める側」の、タバコおよび喫煙者に対するあつかいが度を越して理不尽ではないか、すこし酷すぎやしないか、と思うだけだ。今回のこれも、その一例に数えられよう。

だから僕の興味は、タバコが人間にとって本当に害悪なのか否かではない。最初はそこにも興味は向いていたがもはや、タバコをめぐる「場」、環境、その一点に向いている。死者を嘲笑するという、人倫レベルにおいて最も非難されるべきその行動に人を駆り立てるものは、いったい何なのか?


タバコ問題に関して、もっともシンプルでわかりやすい「解決策」はこれだと思う。

タバコを非合法にする

タバコ税だなんだと、増税対象にすれば税収問題の解決策にはなるし、喫煙の抑制にもなるし一挙両得って、いったい何を言っているんだ。嫌煙派はタバコが「体に悪い」といっているじゃないか。そもそもなぜそんなものを国家が大々的に課税対象にして、売り物として是認しているんだ。タバコも大麻のように非合法化すればいいじゃないか。


・・・と、そうできないのは、タバコが人の死に決定的な影響力を持つという決定的な証拠がないからではないだろうか。違法にしたい。しかしそれをするには証拠が足りない。この断絶を無矛盾的に架橋するのは、今のところ難しい。だからこそ、非合法化、ではなくとりあえず「禁煙運動」なのではないか。


・・・そうとも考えられるが、僕はあえて別の答えを導きたい。嫌煙派の喫煙者に対する締め付けというのは、どこかスパッと止めを刺さないところがある。ジメジメとジメジメと真綿で首を絞めるように、徐々に、しかし確実に執行されていく。それはまるで「生煮え」のように。


実はこの「生煮え」の状況自体に、ある秘密が隠されているように僕は思う。彼ら喫煙反対派を駆動させている「欲望」があるとしてそれは、タバコという「敵」そのものをこの世から根絶することなのだろうか。おそらくそうではないだろう。欲望とは、どんなに消してもまた燃え上がってしまうという厄介な代物だ。おそらくこの世界からタバコが消えれば、彼ら反対派は敵を、またどこからか新たに案出するにちがいない。
だからこそ、その手間を省くためにも、タバコという害悪は、いつも生煮えの状態で生かされている。ちょうど彼らがその駆逐を心地よがれる程度に、そして、タバコそのものがなくなってしまわない程度に。

社会が不正をはたらいて、それが諸問題の原因だと批判する論調が強くなると、社会はその批判に答えて、ではこれではどうでしょう、とより良いあり方を提案してくる。それで、困った人たちの一部が救済されるのだが、それと同時に以前の問題が完全に解決しないままで今度は異なる問題が出てくる。それをまた批判して・・・という循環が出来上がる。そうやって、社会はずっと続いていく。

で、肝心の失敗した私に対する私の反省はいつのまにか社会の批判へとすり替わることがある。そうやって、私は私について真剣に考えるというすごく精神的にも体力的にも消耗する作業をせずに済ませることが出来る。自分を騙しながら楽に生きていくってことである。

こういう人が、社会の不正を実のところ望んでいる。そう考えると、社会が変わらないのにも納得がいく。

湯浅誠とジジェク - 続・自我闘病日記

無意識の次元において禁煙を推し進めている人々は、現状を追認している人(たとえば喫煙者)と、知らず知らずのうち(だから“無意識” なのか)に手を結んでいる。
「タバコをめぐる環境を存続させている」という点においては、禁煙ファシストと喫煙者は―双方異次元のレベルにおいてだが―実は意見が一致しているのだ。