いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

存在しない男女関係と、存在する男女非関係

p_shirokumaさんの興味深い記事。

まっとうな男女交際って、それなりに修練しないと無理じゃね? - シロクマの屑籠

「高校生にとっての恋愛は選択科目で、大学生にとっての恋愛は必修科目」。

どこかでこんな俗説を聞いた憶えがある。高校生のうちは恋愛できるヤツと恋愛できないヤツもしくは興味ないヤツというのに別れてもよいが、大学生にもなったら恋愛はマストだぜ、という程度の意味合いだったと思うが、実情がそれに追いついていない者にとっては無意味に苦しめられる格言(?)だ。

この問題、「必須科目・義務教育的に「男女交際を義務付ける」なんてことは出来そうにない」のはなぜかということは、やはり「「修練のために、とりあえず付き合う」とか「教育機関が推奨する男女交際」とかいうのも間違っている」という結論以上に妥当なものは見あたらないのだけれど、それでも欲望の観点から一つの解を出しておきたい。


ここで問いたいのは、箸を使うことと恋愛をすること、根本的には両者の何が違うのだろうか、ということ。


頭の中にはいろいろと考えが浮かぶがつきつめればそれは、幻想の有無だろう。
恋愛それ自体と恋愛対象に対して、未だ恋愛(片思いは除く)をしたことがない人間が幻想を見出すのが想像に難くないのに対して、箸それ自体と箸を使うことに対して、未だ箸を使えない人が幻想を見出すことは、あまり想像できない。あらかじめそこに幻想がないからこそ、実際に箸が使えるようになったとしても、そこに使える前の現実と使えるようになった後の現実の落差(幻滅)がないのだ。


だが、p_shirokumaさんの言うところの「まっとうな男女交際」というのも、おそらくラカンならば「存在しない」と退けるだろう。もちろん身体レベルでの交接が存在するということは誰の目にも明かだろうが、互いが互いに相手越しに見る幻想の間には、決して男女関係は存在できない。


今、各所方面で密かに話題になっているジジェクさんからの引用。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女は瓶ビールに変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性からすれば(キスで表現された)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファロス的な存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因に還元してしまう。この非対象ゆえに、性関係は存在しないのである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。


スラヴォイ・ジジェクラカンはこう読め!』*199―100p


このジジェクの提出する例え話はすっごくわかりやすいようでいて、実はすっごくわかりにくい。
この例え話の言わんとしていることを僕なりにまとめるとそれは、「主体の幻想は主客関係の枠内でしか叶わない」ということになるだろうか。現実にそこで繰り広げられているのは、「女とカエル」「男とビール」という別々の2つの性関係であって、理想的な「自然な美しい男女のカップル」も、幻想と幻想の出会う「瓶ビールを抱えているカエル」という関係も、実は「存在しない」。


では、そのような存在しない恋愛関係と、例えばオタクの脳内恋愛は両極端なもの同士として対置できるのだろうか。現実の恋愛において恋愛対象が箸のような物質でないのに対して、マンガ、アニメなどで表象される二次元のキャラに萌える人間の、その対象は単に物体であるから箸に近いと結論づけられるのか。
そうではないだろう。ここで問われるのは、「幻想投影装置」としての対象だ。だからこそ、オタの脳内で躍動しているであろう二次元美少女は、無機質な箸などではなく、僕らが夢想する「隣の席のカワイイあの子」の方にこそ近づく。


もうずいぶん昔のようにも感じるが、「かんなぎ」の一連の処女厨騒動は、一部の狂ったアニオタの例外的な暴走なのかといえば、僕にはそうとは思えない。アニメキャラクターに清純な女性像を求めるのと同じように、未だ現実社会では清純包囲網が女性を囲っているからだ。「かんなぎ」での炎上は、その「過剰」にすぎないと考える方が妥当だ。そしてその過剰、つまり一連の騒動=彼らの怒りの根源には、リアルにおける性的関係の(当人の意思よるのかそうでないかはさておくとしても)放棄までも賭け金にして彼らが得た理想の(存在する)「恋愛非関係」であったにもかかわらず、設定レベルにおいてそれが「汚辱」されたということが、彼らにはたまらなかったのではないかというように、僕には思える。


ということでつまり、世界は「恋愛する者」と「脳内恋愛する者」に二分されるわけではない。「恋愛する者」が「脳内恋愛する者」の集団内で、それを現実において実践に移しようとし、そして挫折する人たちに過ぎないのだ。


ということで話はだいぶ逸れたが、なぜ男女交際が義務教育化しないか。その疑問への解答は「なぜマンガ、アニメへの傾倒を義務教育化しないのか?」という我々が常日頃から抱く疑問への解と、以下同文。


へ、答えになってない!?

*1:

ラカンはこう読め!

ラカンはこう読め!