いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

相手に先立ってぼくらは矛をおさめることができるのか? 〜エドワード・ノートン『アメリカンヒストリーX』(1998年)批評〜

カリフォルニア州ヴェニス・ビーチを舞台に、白人至上主義に傾倒する兄弟を主人公に、今もアメリカ社会に根深く残る人種差別問題にスポットを当てたドラマ。エドワード・ノートンが、ネオナチのリーダー的存在の兄を演じる。

ハイスクールのレポートで人種差別的な内容を書いたダニーは、校長に呼び出しをくらい彼から補講「アメリカンヒストリーX」を受講するように命じられる。彼は兄デレク譲りの筋金入りのレイシストであり、ある罪で服役中の兄の帰りを待望している。

レイシズムをあつかった映画では、アカデミー作品賞を獲ったポール・ハギス監督の『クラッシュ』(2004年)があるが、あの映画では異なる人種間での衝突(クラッシュ)を、複数の人物視点をとおして描いていた。同じ出来事を異なる視点からの異なる見方で描くことは、観客に一元的な答えを与えない効果がある。たとえば日本の近年の小説では、『告白』や『悪人』なんかもその系譜に当てはまる。
しかし、本作は複数視点ではなく、ましてや「被差別者」の黒人の視点でもなく、「差別者」(と思われている)白人側に立った視点をとっている。そしてその視点から見えてくるのは、彼らだって「被害者」という自認しているということだ。彼らはマイノリティに仕事を奪われたとし、マイノリティを雇うスーパーマーケットを強襲する。

物語は、デレクが刑期を終え出所してきたところから、とたんに動き出す。次第にダニーは気づく。あのデレク、あの兄の様子がおかしい。服役前、黒人排除にあれだけ気炎を上げていた兄にいったい何があったのか。そして、そもそも彼らを人種差別に向かわせていたその憎しみの根源には、何があるのか。物語はその源流をたどっていく。


ところで、映画は過去と現在をなんども行き来しながら進むのだが、過去のパートがつねにモノクロであることに注目してほしい。

映画で部分的にモノクロフィルムを使うことには、そのシーンが過去の話であるということをしめす効果があるが、この映画でなによりも重要なのは、白と黒というのがそのまま白人と黒人のメタファーになっているということだ。服役前のデレク(過去のデレク)にとっては、白か黒かだけが問題であり、白と黒の戦いに勝つことそれだけが重要だった。白と黒のコントラストだけで描かれる過去は、それを暗示している。

こうした題材だと、劇中でも何度も使われているように「偽善的」になってしまう恐れがあるが、本作は安易な綺麗事は排していて好感をもてる。ただ一点、デレクの獄中での「転向」の後押しをしたある人物に対し、彼が自分が何を犯して投獄されたかを明かしていないのが、すこし不満の残るところ。もし、デレクにその罪を「告白」されたとき、彼がどのような行動に出るか、それを描くことで映画はまたさらに深みを増したのではないだろうか。


差別問題は、どちらかが、だれかが先立って矛をおさめることにしか、解決の道はないのではとぼくは思っている。やられたらやりかえすでは、お互い相手を殲滅するまで戦いに終わりがこない。どちらかが先に赦すしかないのである。映画のクライマックスでは、デレクにそんな赦しにまつわる究極の試練が用意されている。
絶望の淵に立つ彼が、その試練を克服できたのかそれともできなかったのかは、そこから先は観客の想像にゆだねられている。