いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ドウセワタシハ性欲処理ノ代用品〜『空気人形』批評〜

この映画の主人公は、板尾さん演じるさえないおっさんに愛玩される空気人形だ。
空気人形(またの名をラブドール、またの名をダッチワイフ)といってもこういうやつではなく、

こういうやつ。

(かわいいじゃん……)。


彼女(空気人形にだって性別はある)の仕事は、毎晩おっさんの仕事の愚痴にだまって耳を傾け、毎晩おっさんのねちっこいセックスに無抵抗に応じること。
そんな空気人形が、もしある日突然に心を持ってしまったら?


空気人形がどうして心を持つんだとか、観ていると不自然なところもあり疑問が湧いてくるのだが、そうしたものはとりあえず脇に置いておこう。この映画はいちおう現代劇だが、リアリティの水準はかなり低く、一つのおとぎ話としてとらえた方がいい。作品の映像トーンと同じように、ゆったり、余裕を持って、暖かい視線で見守ってほしい。


ではそんなおとぎ話で何が描かれるのか?


心を持った空気人形とはなにを隠そう人間(とくに女)のメタファーだ。
彼女はたびたび「どうせわたしは性欲処理の代用品」という諦念を口にする。
だがそれは、空気人形にかぎったことなのだろうか? ここでダウンタウン松本人志がかつてラジオで言った「理想の女とは、まだ出会ってない女」という「名言」を引いておこう。世の彼女や妻に位置する女は全員、男にとって「(まだ出会ってない女の)代用品」ではないか? 自分のいない間に新しい人形がベッドに寝かされていたことにショックを受けた彼女が「何で私なの!?私じゃなくていいんでしょ!?」と板尾さんにつめよるシーンは、あたかも本物のカップルの痴話げんかのようで、観ているこちらも居心地が悪くなってくる。

いや、これは女だけのことではない。考えてみたら男女をとわず人間は、社会という巨大なシステムのちっぽけな部品であって、いつなんどき誰とでも取って代わられる「代用品」にすぎない。映画はそのことを、空気人形のまわりの人間の群像劇として、シニカルにではなくあくまでも優しく見守るように描いていく(ただ、この群像劇はあまり上手くいっているとは思えないが)。


代用品であることが宿命づけられたわれわれ、そして空気人形が、たったひとつ、唯一無二の存在になれる場所がある。
それは恋愛であり、恋人という存在だ。自分の好きな相手は、そして相手が好きでいてくれる自分は、余人をもって代えがたい存在だ。
先にも書いたとおり恋人だって、誰にでも代替可能な存在のはずだ。しかしそれでも、相手のことがまるで代替不可能な存在であるかのように一時的にでも錯覚できることこそが、恋愛といういとなみの醍醐味ではなかったか?


空気人形を体当たりで演じたのは韓国人女優のペ・ドゥナ。空気人形はまさに彼女の適役だった。その理由の一つは、彼女の身体の透明な存在感だ。たとえば園子温の映画でおなじみの神楽坂恵では、本来生気の通ってないはずの空気人形を演じるにはエロすぎる。また、韓国人の彼女を起用した理由は、空気人形には日本人にとって存在的、言語的な異物感が必要だと感じたからではないだろうか。もちろんこれは推測でしかないが。


空気人形の彼女が唯一無二の恋人という存在を見つけ、相手にとっても唯一無二の存在になれたのもつかの間、映画は悲劇的なしかたで幕をおろす。
映画はある空想の光景で終わる。被創物の心問題といえば、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』があまりにも有名だが、空気人形が最後に観たあれは、夢なのだろうか、それとも……。