どんなグループにも飲み会に欠かせない存在というのがいる。そいつがいないと始まらない、盛り上がらないという存在。谷崎潤一郎にはそういう男を描いた『幇間』という短編がある。
舞台は明治40年の兜町、もともとは相場師であったがやたらと宴会芸を得意とする桜井という男が、そちらを本業にしていくというあらすじだ。
遊び仲間の連中に喜ばれ、酒の席にはなくてはならない人物でした。唄が上手で、話が上手で、よしや自分がどんなに羽振りの好い時でも、勿体ぶるなどという云うことは毛頭なく、立派な旦那株であると云う身分も忘れ、どうかすると立派な男子であると云う品位をさえ忘れて、ひたすら友達や芸者たちにやんやと褒められたり、可笑しがられたりするのが、愉快でたまらないのです。
このような適性のある「酒の席にはなくてはならない人物」であるが、そのことで皆から一目置かれていたり、特定の女性からモテるということがあるわけではないことを、ここで押さえておかなければならない。このことについては後述する。
然し一方では重宝がられると同時に、いくらお金があっても、羽振りがよくなっても、誰一人彼に媚を呈したり、惚れたりする者はありません。「旦那」とも、「あなた」とも云わず、「桜井さん」「桜井さん」と呼び掛けて、自然と連れのお客より一段低い人間のように取り扱いながら、それを失礼だとも思わないのです。実際に彼は尊敬の念とか、恋慕の情とかを、けっして人に起こさせるような人間ではありませんでした。
この桜井という男は遊びにかまけるあまりとうとう本業の相場師を潰してしまう。そのあと、見かねた元同業者の榊原のつてで幇間に弟子入りして、師匠から三平という名をさずかる。
ところで、タイトルにもなっている幇間だ。聞きなれない言葉だけれど、どうも宴会の席などで場を盛りあげる仕事なんだとか。
幇間(ほうかん、たいこ)は、宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる男性の職業をいう。
いわば、宴会の盛り上げ役を代行する職業、というところだろうか。
ただこれも一概にはいえないようだ。興味を持ったので京須偕充『幇間は死なず』を開いてみると、幇間にもピンからキリまであるそうで、一流にもなれば、お客の財布を預かり料理や酒、芸者の手配までおこなう「時間と空間のプロデューサー」という側面もあったそうだ。「プロデューサー」となるとこれでなかなか格好のいい職業に聞こえる。
だが、この作中の三平のやる幇間はあくまでも唄を歌ったり道化を演じたりしてその場を盛り上げる「愉快で楽しい人」、いわば「職業的イジられ役」だ。
もともと適性があったため、三平の幇間業は順調なすべりだしをみせる。
しかしそんな矢先に彼は恋に落ちる。ある夜の宴会でお客の接待ゴルフならぬ「接待催眠術」にかかったフリをしているとき、その次に彼に「催眠術」をかけた芸者の梅吉を、三平は気に入ってしまうのだ。
だが、残念ながらこの恋は成就しない。幇間である三平が一人の男である前に、「愉快で楽しい人」だからだ。
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どんなグループにも飲み会に欠かせない存在というのがいる。この短編には「愉快で楽しい人」の恋愛の不可能性が凝縮している。職業的な幇間こそ現代では希少な存在になってしまったが、冒頭で書いたようにいつの時代にも「愉快で楽しい人」というのが飲み会にも存在して、失態や醜態を演じてみんなを楽しませる。彼らも三平と似た境遇にいて、とある苦悩を日々抱いている。その苦悩とは、恋愛にまつわる苦悩だ。
結論から先に言おう。「愉快で楽しい人」に恋愛は不可能だ。なぜなら、彼は「みんなのもの」だからだ。ディズニーランドのミッキーマウスを想像してみてほしい。TDLに来た女の子たちが彼を見つけて「あ、ミッキーだ!」と駆け寄ってみたところ、ミッキーの股間がフルボッキしていたとしたら…。地獄絵図とはまさにこのことだろう。ミッキーは勃起してならない。だがそれは、ディズニーのイメージが壊れるから、ではない。愉快で楽しいミッキーであるからこそ勃起してはならない。「男」になってはならないのだ。
これと同じことが「愉快で楽しい人」にもいえる。いわば彼はみんなの玩具であり、みんなの「ウケ」を独占している。だが「ウケ」を独占する一方で、彼は誰かひとりからもらえるかもしれなかった「モテ」を犠牲にすることになる。恋愛は特権的で、排他的な営みだ。「モテ」とは誰かにとっての「私だけのあなた」になることといっていいが、みんなにとって「愉快で楽しい人」はその定義からして、この誰かにとっての「私だけのあなた」にはなり得ないのだ。
飲み会で彼が勝ち取った「愉快で楽しい人」という「ウケ」の地位は、そうした排他的な「モテ」の地位とのトレードオフによるものだ。だからこそ、彼が彼であり続けるかぎり、恋愛は遠ざかる。それでもたまにリアクションがいい、いや、よすぎるという子がいて、「あ、もしかしてこれは俺のことを好いてく れ て る の か ?」という錯覚がおきる。だがこれはあくまでも錯覚だ。いざ一人の「男」としてアタックしてみたところで「ごめんなさい、××くん、男としてみれない…」と言われるのがオチ。
こういう「愉快で楽しい人」は、きっと女の中にもいるのだろう。このように飲み会で「モテ」を「ウケ」にトレードオフして、場を盛りあげる。いや、どうしても盛りあげてしまう。そういう悲しき性を背負って生きる者が、「愉快で楽しい人」なのだ。その一方いつも「モテ」をかすめ取っていくのは、飲み会のすみの方で静かに無愛想に飲んでいる輩なのだ。あー、なんだか腹立ってきたな!
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閑話休題。三平は梅吉を好いている。しかし、彼が幇間としてではなく一人の「男」として迫るたび、梅吉に「催眠術」をかけられる。「ウケ」をとらないわけにはいかず、しかたなく彼もかかったふりをするから、二人には一向に進展がない。業を煮やした彼は榊原にこのことを打ち明け、自分と彼女の仲を取り持ってほしいと頼む。
だが榊原はこのことを逆手にとり彼にイタズラを仕掛けてやろうと企む。三平が梅吉と二人っきりになれるようにセッティングし、彼女にそこで再び彼に「催眠術」にかけてもらうというイタズラだ。
注意すべきなのは、榊原が特に性格が悪い人間でもなく、また三平を嫌っているわけでもないということ。彼はあくまでも幇間としての三平を気に入っていて、だからこそ、「男」としての彼をアシストするより、みんなにとっての「愉快で楽しい人」の彼をまた見たいと思ってしまうわけだ。梅吉も最初は「可哀想」とためらうものの、三平なら怒らないだろうと説得され結局その計画にのることになる。
梅吉からの手紙を受け取り「ぞくぞく喜」んだ三平は、まんまとおびき寄せられてしまう。楽しみにして来た三平であったが、二人っきりのいいムードになる寸前で梅吉にふたたび「催眠術」をかけられ、やむなくかけられたフリを余儀なくされる。
ただ、三平の方も、単なるお人よしというわけではない。
「そら!もうかかっちまった。そうら。」
と、忽ち梅吉の凛とした、涼しい目元で睨められると、又女にバカにされたい云う欲望の方が先に立って、この大事な瀬戸際に又々ぐたりとうなだれて了いたしました。
三平にはもちろん梅吉を自分のものにしたいという気持ちはある。しかし同時に、なかなかそうはできず梅吉にバカにされ思うがままに操られることからも、マゾ的な欲望を満たしているようにみてとれる。さらにこのあと彼が「催眠術」にかかり眠りこけたフリに入ったところで、それまで隠れてみていた榊原を含む仕掛け人たちが部屋に入ってくる。彼はそれに驚きすべてを悟るものの、「惚れた女にこんな真似させられるのが愉快」であるため、寝たふりを一晩中続けることになる。ここはかなり両義的だ。
翌朝、梅吉に起こされた三平は「梅ちゃんにこんなに可愛がって貰えりゃあ、後世よしに違いありやせん。日頃の念が届いて、私ゃあ全く嬉しゅうがす。」といって帰っていく。ここはすこし入り組んでいる。催眠術を掛けられたフリをしていた三平はもちろん自分と梅吉との間に何もなかったということを知っている。そしてそのうえで自分と梅吉との間に何かがあったと思い込んでいるフリをしている、というわけだ。
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結末はどうなるのか。
数日後に榊原(彼こそがイタズラを考えた張本人)から梅吉とあの夜どうなったのかを訊ねたられた三平は、つぎのように返す。
「や、どうもお陰様で有難うがす。なあにぶつかって見りゃあまるでたわいはありませんや。気丈だの、勝気だのと云ったって、女はやっぱり女でげす。からッきし、だらしも何もあった話じゃありません。」
と、恐悦至極の体たらくに、
「お前もなかなか色男だな。」
こういって冷やかすと、
「えへへへへ」
と、三平は卑しいProfessionalな笑い方をして、扇子でぽんと額を打ちました。
ここでいうProfessionalとは、もちろん幇間という「愉快で楽しい人」のProfessionalのことだ。結局三平は最後まで、ことの真相に気づかない道化を演じるきる。「モテ」を「ウケ」の犠牲にしたのだ。涙なしには読めない、とまではいわないものの、彼の幇間としてのプロフェッショナルに、痛く共感してしまうのは、僕という「愉快で楽しい人」だけだろうか?