いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

元非リア、元非モテが一番エゲつないという仮説

世の中には、美しい外見を持ち、友達にも恵まれ、恋人にも不自由せず、メンタル的にも大変健全ないわゆる「リア充」という人々がいる。いわゆる「持ってる人」たちである。
これに対して、それらの要素が欠落、あるいは著しく乏しい非リア、非モテという人々がいる。


ただ、この構造は普遍ではなく、後者が何かの弾みで前者にクラスチェンジすることもあれば、また前者が後者になってしまうこともあるだろう。


さて、この根っからのリア充と、もともとは非リアだったリア充のうち、非リアに対して差別心、あるいは優越感がより強いのは、元非リアなのではないか、という仮説をぼくは立てている。


これは以前、タランティーノの『ジャンゴ』について論じたことと、同じ構造だ。
ディカプリオ演じる地主の男は、奴隷として扱う黒人への差別心が一見みえにくい。なぜなら、彼に取って、生まれたときから世界は「そういうもの」だったからだ。そしてこの先も彼の地位は揺るぎようがないが故に、黒人への態度も一見寛容にみえる。
一方、サミュエル・L・ジャクソンが演じる黒人召使いの男は、白人と対等に話すジャンゴに、激烈な反応を見せる。
召使いの序列の中で苦労して「名誉白人」の地位を獲得した彼に取って、ジャンゴは、彼が優位に立つ差別構造の秩序破壊者に他ならないからだ。



ディカプリオを根っからのリア充、L・ジャクソンを元非モテ、ジャンゴを初めとする他の非リアという風に例えると、事態が分かりやすいだろう。

根っからのリア充が非リアに落ちる可能性がゼロに等しいのに対し、「〜デビュー」などを経てなった元非リアは、実は根は非リアのままだったりする。自らのリア充の地位が砂上の楼閣であるがゆえに、ちょっとしたショックでまた非リアに逆戻りする怖さに、いつもおびえている。


そうした恐れを抱く彼らの優位性を担保するのは、実は何を隠そう、現に非リア、非モテの人々なのである。彼ら彼女らと自分はちがうのだと、強くはっきりと線引きをしつづけることこそが、その恐れを払拭するための唯一の手段だ。
しかも、元非リアのリア充というのは、根っからのリア充が自然におこなっていた振る舞いを、ルサンチマンが上乗せされた分、これ見よがしに見せつけてくる。これが、タイトルに書いたようにエゲつない。
根っからのリア充が自然にやっている行動を、「手に入れた」という自覚の元で、誇示するのである。これがエグい。特にいまは、SNSを駆使してエゲつない「リア充」っぷりを見せつけてくる。


かつては非リア、非モテだったのだから、そういう人たちの気持ちをわかってやれるのではないか、という疑問をもたれるかもしれない。現に、そういう「非モテ、非リアに易しい元非リア」もいないことはない。しかし、残念ながらそれは少数派と言わざるを得ない。


非リア、非モテリア充になったときにどう振る舞うのか。試されているのは、己が真のリア充なのかではなく(残念ながら真のリア充への道は、生まれたときに閉ざされている)、その人の心根である。