いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

言葉があるとないとでは「現実」がちがう

「赤ちゃんがいるんですから!」は現代最強の「殺し文句」になりつつあるが、そんな他責的な言葉にこんなのもあるらしい。

スメルハラスメントという言葉をご存知だろうか。モラスハラスメント、セクシャルハラスメントパワーハラスメント・・・、様々なハラスメントがあふれる中、昨今注目を集めているのがスメルハラスメントだ。
(…)

http://youpouch.com/2010/10/09/115840/


人間だれしも、3日4日風呂に入らなければ体から不思議な臭いを発し始めるし、臭いのきついものを食べればその直後は口も臭くなる。有機体である以上人間は、それくらい臭いと無縁に「なりにくい存在」なのだ。俺は常ににおいと無縁の人間だと豪語できる人がいたらそれはすごいとは思うが、生きている限り人間は発汗するし、なにかを摂取し排泄する。おそらくすべての人間はにおいと無縁ではないのだ。

そうなると、このスメルハラスメントという言葉が定義され流通させることそれ自体に、僕らはすこし留保すべきように思う。



現実の後追いで言葉が作られるということもあるだろうが、得てして作られた言葉の後追いで「現実」が組み立てられていく。

今では世界を席巻する「ハラスメントシリーズ」の大ヒット第一作は、なにを隠そうセクシャルハラスメントだ。性的な言動をされ嫌な思いをしていた人(主に女性)は、この言葉を獲得することによって、そういった嫌がらせを名指し、批判するという「武器」を得たのだ。また、セクハラを受ける前段階にいた後続世代は、この言葉をあらかじめ知って社会に出たことによって、批判的に現実を見ることができるようになった。

雑多な問題は残るものの、僕はこの「セクハラ」の「誕生」は評価すべきものであると考える。

そのあと、今度は「パワーハラスメント」という言葉もでてきた。目上の人から立場を使って目下のものへ下される「理不尽ないじめ」を指す言葉だ。世の中にはときおり、「叱咤によって成長する」というタイプの人も少なからずいるわけで、「叱咤」と「理不尽ないじめ」は線引きが難しい。極言すればその人次第なわけで、この「パワハラ」の「誕生」によりその「叱咤によって成長する」はずだった人が、成長の機会を逸した、というこれまた根拠はないが僕はけっこう確信している「弊害」もあると思うが、結論的には、このパワハラも「アリ」なのだ。



だが、この「スメハラ」は率直に言って「ナシ」だろう。
要は「物事には限度がある」ということだ。「『スメハラ』という言葉のない社会」と「『スメハラ』という言葉が存在する社会」を想像して比較考量したとき、後者になることは、前者のままであること以上にはるかにめんどくさくなるだろう。


他の国の事情はよくわからないが、現代日本では殊に「臭い」に関しては、「言い出しにくい雰囲気」というのがある。もちろんいい匂いというのは指摘できるだろうが、少し気になるにおい、臭いにおいというものは、なかなかその相手に指摘しにくいものがある。

僕はこの「言い出しにくい雰囲気」というのが、結果的にうまく機能してきたんじゃないか、と思う。死ぬほど臭いといっても、本当に死ぬわけではない。そこで生まれるのは「うわっくせっ!」という「嫌悪感」にすぎない。そして多くのそれは「言い出しにくい雰囲気」というダムにせきとめられてきたのだ。



もしこのスメルハラスメントという言葉が、この「嫌悪感」に「言葉」を与えたとすればどうなるだろう。
間違いなくこの「言い出しにくい雰囲気」というダムは決壊する。そして多くの臭いに対する嫌悪感が爆発することになる。隣の席の○○さんがスメハラを起こしています。どうなってるんですか?あの食べ物はスメハラです。作った人は誰ですか?人によってとらえ方が異なってくる。僕は病院にただよう消毒液の臭いがわりと好きなのだが、あれだって嫌という人はいる。反対に、村上春樹の「クサい」言い回しにうっとりしてる読者もいることだろうが(でなきゃあんなに売れない)、僕はあれがクサくてたまらないのであれもスメハラ認定されるべきだ。教室の水槽で飼っていた金魚を腐らしてしまった怠惰な生物係への糾弾は、このスメハラをもってしてさらに強まることだろう。かわいそうに。というかちゃんと世話してやれ。

臭いというのは物理的にも社会的にもとらえがたいものだが、とらえがたいがゆえに、言葉によって定義されると却って厄介になる。

臭いによって現実が変わるという場合もある。臭いがもとでモテないとか彼女にフラれたとか、商談がうまくいかないということはあるだろう。しかし、そういったものがうまくいかないというなら本人がなんとかしろという話で、臭いが実際問題になっているということは、別に「スメルハラスメント」という言葉の登場が必然であるということを意味はしない。


それに、臭いというのは歴史的にみても差別のかっこうの道具にされてきた。例えば中国では、イスラム教徒で豚を食べない少数民族ウイグル族には、漢民族から「ウイグル族は羊臭い」といった差別的な発言も出てきているという。言葉をつくった人にその意図はないのかもしれない。だが言葉を作った人の意図と、その言葉の実際の使われ方が一致するということは甚だ怪しい。



この記事について言及しているブログへのブコメで、「むしろ『臭い』と言った人の方が『スメルハラスメント』だろ」という意見があって、なるほどたしかにそうだと思った。「お前臭いよ」と名指しで非難された人こそ「嫌がらせ」を受けているわけであって、語の使い方からしてこちらの意味でも十分通じる気がする。


だが、ナイーブな僕から言わせてもらえば、人が臭いということは「事実」としてあり、それを臭いと思ってしまう「実感」が僕の中に去来することは、これはもうどうしようもなくあることなのだ。そのときにその「実感」を抱いたことそれ自体に「俺、今スメハラっぽいこと考えちゃったかも」と自罰的になるのが、鬱陶しいのである。めんどーなのだ。


そう考えると、「スメルハラスメント」なんていう言葉自体、即刻「ゴミ箱」にポイするべきだ。それも、こういう新語を知ったらやたら使いたがる輩がいるが、そいつらに見つかってやたら広まってしまうその前になるべく早くに、だ。そして、こういうなんでも造語にしたがる人たちというのは、「なんだこの、言いあらわしがたい嫌な感じは・・・」という言葉にならない嫌悪感という実感を、もっともっと内に秘めて噛みしめながら生きるべきなのだ。