いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

自意識過剰の正しいけどまちがっている“誤用”について

自意識過剰という言葉は、実はけっこうヘンテコだ。言葉に厳密な人ほど、すごく失礼な誤用をしてしまうんじゃないだろうか。


少し前に、ustreamでとあるラジオの深夜番組を見ていた。その回には昨年から今年にかけてヒットしたらある恋愛マンガの作者がゲスト出演していて、自己の恋愛論を展開していた。ディスプレイ越しながら、初めて見るその人とその人の早口な恋愛トークに圧倒されていたものの、捲くし立てられるその言葉の海を聞きながら、余計なお世話ではあるがモテないというその人についてある確信を得た。


その直後、Twitter上で同じような感想をもったある人が一言、「この人自意識過剰だな」とつぶやいていた。
―――自意識過剰。
何を隠そうそれこそが、僕の頭の中で思い浮かんだ「ある確信」の正体だった。
しかし、そのように字になったものを目で追ってみると、どうも自分の言い表したかったことは微妙にずれてしまっているような気がしてくる。対象となっているそのマンガ家さんに対して、言葉としてきつすぎやしないかという気がしてきたのだ。


そもそも僕の中でこの言葉が浮かんだ時、自分がどうしてモテないか、いかにしてモテないかをとめどなく語り続けるこの人物にそこまでの敵愾心はなく(むしろ僕はその人の描くマンガのファンだった)、この人物がモテないという状況の説明としてしごく中立的な見解として「自意識過剰」という言葉が思い浮かんだわけで、いうならばこれは、僕の気持ちとその気持ちを言語化として選んだ言葉のギャップに他ならない。


僕がなぜその作家の立ち居ふるまいに「自意識過剰」という言葉が思い浮かんだのかというと、恋愛のできない自分についてあまりに理屈っぽい考察を積み重ねすぎているように見て取れたからだ。理屈っぽく考えすぎると、上手くいくはずのこともかえって身動きとれなくなってしまうことだってある。そんなの「状態」について考えているうちに「自意識過剰」という言葉が思い浮かんだのだ。


自分に対する意識の過剰な構築、それこそ言葉としては「自意識過剰」に当てはまりそうだけれど、世にいう「自意識過剰」の意味とその使われ方とは、すこしズレている。いや、ズレているというよりも、なにか余計なものが上から乗っかっているのだ。その余計なものこそがたぶん、先に述べたように僕がきつすぎるという直感を抱いた「トゲ」の部分なのだろう。


気になって自意識過剰とググってみる。すると先頭に出てきたもっとも支配的な見解では自意識とは「他人が自分をどう見ているかを気にしすぎる状態」らしい。おそらく僕が感じた「余計なもの」とは、この「他人が自分をどう見ているか」という部分に他ならない。これはよくよく考えてみると変な話だ。自意識というのが自分に対する見解だと考えれば、他人の介在しない領域だって自意識になるはずで、一足飛びに「他人が自分をどう見ているか」に行ってしまうのは理屈としておかしい。


さらに、自意識過剰にはこの表層的な意味のさらに深層に、(他人はそこまであなたに注視してないにもかかわらず)という痛烈な文言が含意されていることが多々ある。つまり、自意識過剰が他人に投げかけられる際には往々にして「(他人はそこまで注視していないのに)他人が自分をどう見ているかを気にしすぎる状態」というそれはそれは鋭利な批判になっているのだ。


過剰防衛は過剰な防衛であり、過剰摂取は過剰な摂取である。にもかかわらず、自意識過剰に関しては、「過剰な自意識(誰も注目してないのによ!)」という余計なツッコミも入っている。明らかに意味を盛りすぎだ。このように自意識過剰とは、価値中立的な「状態」を説明しているようでいて、そこから類推できる可能性の一つにすぎない「批判」にまで一足飛びで行ってしまう、それはそれは使うにはリスキーな言葉なのだ。


では、ひるがえって僕の感じた状態を言い表すにはどうすればいいだろうか。思いつく限りでは、「理屈っぽい」という言葉が最もしっくりくる。しかしそのニュアンスに足りないのはあくまでそれが「自分自身に対して」ということだ。そうなると、自意識過剰が一番手っ取り早いのだが、うーむ…。


言葉って難しいね、そんなお話。