いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

難波功士『創刊の社会史』

創刊の社会史 (ちくま新書)

創刊の社会史 (ちくま新書)

目次
はじめに
第1章 それは「山師」である。
第2章 それは「柳の下」である。
第3章 それは「瀬踏みである。
第4章 それは「黒船」である。
第5章 それは「伴走者」である。
第6章 それは「兄弟姉妹」である。
第7章 それは「カレ誌」である。
第8章 それは「アウトサイダー」である。
第9章 それは「キャットファイト」である。
第10章 それは「青田刈り」である。
第11章 それは「忘れたい過去」である。
 
あとがき
参考文献


ふだん読まない雑誌を何かのきっかけで開いたときに感じる、独特の“疎外感”というのは人に共感されるだろうか。各々の雑誌は、毎号を積み重ねながらある価値観なり世界観を提示する。そして一定の読者の一群、読者層を引き寄せたその誌面は、ある種の“磁場”を持つことになる。それを外から他人面してのぞくとなると、途端にあの“疎外感”を味わうことになる。


ただしその現象にも例外がある。それが創刊号だ。

多くの創刊号には、独特の昂揚と不安、勇躍と迷い、無謀と計算、理想と現実とが交錯している。なんらかの夢を描き、志を込めての創刊であろうが、その一方でとりあえず売れなければ、広告を集めなければならないとの思惑もある。


19p

たとえどんな雑誌であろうと、それ以後どのような歴史をたどろうと、創刊号においては皆同じく読者ゼロの地平からの出発する。創刊とはすなわち、本書でいうところの「暗闇への跳躍」なのだ。時代の風向きを読めていなければ、それは即沈没(=廃刊)をも招きかねない。一つの雑誌が生まれるまでには多くの労力とお金が費やされているため、その結晶である「創刊号」には以後の続刊にはない期待と不安の混淆した熱狂が渦巻いている。

本書は、自身「創刊号フェチ」と自負する社会学者による創刊誌探訪だ。主に雑誌が創刊にいたり、そこからどのような紆余曲折を経ていくかを膨大な創刊号の山をあたりながら解きほぐしてく。



本書でまず取り上げられるのは『an・an』の創刊だ。男性誌『平凡パンチ』の臨時増刊がその源流なのだが、なぜ『an・an』から語りを始めたのかはすぐわかる。今では常識というか、もはやそれなしではファッション雑誌なぞやっていられないという「入り広告」や「タイアップ」の仕組みは、みなこの『an・an』を震源地に始まったていたのだ。当時、児童向け雑誌と既婚女性向け雑誌のその間(大塚英志ならそこを「少女メディア」と呼ぶだろう)にあった隙間にドンと『an・an』は入ってきたわけだが、そこにライバル他社が『non・no』や『JJ』といった雑誌であとから殺到してきて切磋琢磨していくこととなる。昨今の雑誌の売れ行き動向にもかかわらず、「アンノン族」という言葉が今にも通ずるのは皮肉以外の何ものでもない。


また、雑誌は人と人をめぐり合わせる「場」でもある。例えば評者も愛読する『Quick Japan』の創刊号では竹熊健太郎に現在療養中の漫画家岡崎京子、おたくの命名者中森明夫、『完全自殺マニュアル』の鶴見済、さらにはのちに都知事選に立候補し「・・・私もビビる」で一部ネット民を熱狂させた外山恒一まで名を連ねる豪華絢爛ぶり。闇鍋のようなごった煮だ。



ただ、ここまで読んでもらうとわかってもらえるだろうが、注意すべきはあくまで本書のあつかう「創刊」が今昔の若者向けファッション雑誌・ライフスタイル雑誌限定であることだ。当然、本書であつかわれてはいないような総合誌や文芸誌にも、それなりの「暗闇への跳躍」と、その後の紆余曲折があったことだろう。
しかし、総合誌の方針転換というのは僕に言わせればどこか面白みに欠けるのだ。やはりプライドが邪魔にするのだろうか、そこまでの抜本的な改革はなされないような印象を持つ。一方若者向け雑誌は、はっきりいって節操がない。売れなければ仕方がないのだから、場当たり的で、時には「性転換」でさえいとわない。そのようなドラスティックな外科手術で風向きが変わるということもあるだろうが、それでも消えていく雑誌がほとんどらしい。



ただ、そんな若者向け雑誌にも若者向け雑誌なりの「哀愁」がある。というのも、これは雑誌というメディアが抱えた根本的矛盾であると思われるが、雑誌の流す情報とは基本的には垂れ流しであり、鮮度が命なのだ。そして鮮度が落ちた情報はどうなるか。雑誌の情報の「新しい」の反対は、「古い」、ではない。それは「ダサい」に反転するのだ。そして物質としての残る以上、雑誌は廃棄されない限りずっとそのダサさを抱える物体として残り続けることになる。


しかし、「ダサい」ということに哀愁と愛着を抱いてしまうのも、人間というおかしな生き物の特性である。ツッパっていたあのころの自分のカメラにガンをつけている写真を見つけたときのこっ恥ずかしさと言えば分りやすいだろうか(別に僕にそのような時期があったわけではないけれど)。


これからは、よほどのことがない限り、雑誌媒体はパイの縮小はあっても拡大することはまずないだろう。そう考えると、20世紀が雑誌の黄金時代ということになる。本書はそんな、20世紀の雑誌メディアによる壮大な「若気の至り」の歴史を哀愁に満ちたまなざしで巡っていく一冊だ。