いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

一番大切なのは、今日もこうして彼女がはつらつと生きているということなのだから

沢尻エリカ衝撃の暴露 “涙の謝罪”は演技「絶対したくなかった」 

女優沢尻エリカ(24)が07年の不機嫌騒動で涙の謝罪をしたことについて「あれは間違い。絶対したくなかった」と言い、演技だったことを暴露した。米CNNが運営する情報サイトの取材に明かした。

(中略)

 「前の事務所が謝罪しなくてはいけないと言ったけれど、ずっと断っていたんです。絶対したくなかった。これが私のやり方なんだから、と。結局私が折れて。でも間違ってた」


この絶妙に微妙なタイミングに、さらになぜにCNNなんだという不思議もおまけつきで、あいかわらず愉快で楽しい沢尻エリカである。

しかしぼくが意外だったのは、このニュースについてコメントの多くが、彼女のこの発言を「鵜呑み」にし、あたかも業界の裏事情でも知ったという心境にたっていたということだ。当時の彼女が「猫をかぶっていた」と、このいまさらな発言から、いったい誰が信じることできるだろうか。


別にそれは、彼女を嘘つき呼ばわりしたいわけではない。ここで精神分析的に思考すれば、彼女は当時の「本当は謝罪したくなかった自分」について語っているというより、「『本当は謝罪したくなかった自分』であったと思いたい今の自分」を語っているとも、考えられるのだ。


真実というのは、過去から連綿と続く流れの積み重なりが今に至った結果なのだと考える習慣が、ぼくらにはある。しかし、精神分析的な思考においてはそうではない。「真実」とはあくまで「今」の自分から遡及的に作り上げられるものに過ぎない。「今」は結果でなく原因なのだ。


フロイトはこのメカニズムを、不快をとりのぞいて快を得ようとする人間の快感原則として説明する。


何年かぶりに同窓会であった同級生が見ちがえるほど素敵になっていた。そのとき、遡及的に「あの人に当時からあこがれていた自分」という物語をこしらえたほうが、「当時はあの人に見向きもしなかった見る目のない自分」を認めるより、ずっと快適なのだ。だれしもそういう経験があるだろう。


沢尻エリカにとって、当時の「泣きべそをかきながら謝罪した自分」を認めるよりも、「屈服することは是が非でも避けたかったが事務所の要請でしかたなく「泣きべそをかきながら謝罪した自分」を演じてみせた自分」という物語を採択したほうが快適であることは、いうまでもない。


もちろん、「事実」がどうだったかなんて、いまさら知りようがない。もしかしたら、彼女が語っていることはそのまま事実なのかもしれない。当時カメラの前で泣きながら話した瞬間の彼女の心境が実際のところどうだったかなんて、知るすべはないのだ。
それになによりも一番大切なのは、今日もこうして彼女がはつらつと生きているということなのだから。