いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

シラフの女に何もできない男たちと、“名無し"で忘れ去られる女たちについて 映画『プロミシング・ヤング・ウーマン』

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シラフの女に何もできない惨めな男たち

キャリー・マリガンが演じるのは、30歳のコーヒーショップ店員、キャシー。彼女はバーでぐでんぐでんになるまで酔い潰れ、案の定、鼻の下を伸ばした男が「介抱」の名目で近づいてくる。
男が狙いどおりキャシーを自宅へ連れ込み、準備オッケー。キャシーをベッドの上に倒し、体をまさぐりだす。最初は「やめて…やめて…」とかぼそく、気だるそうに声を出していたキャシーだが、男が股倉に手を突っ込もうとしたその時、豹変する。


「ワッアーユードゥーイング???」

 

キャシーの芯の入った声色での詰問。ここで男はようやく気づく。この女、酩酊なんてしてねえ! ずっとシラフだったんだ!

連れ込み男は、ここではっと我に返り、自分がいかに愚かな行為を重ねていたかに気づく。でもそれは、目の前のキャシーへの贖罪の気持ちではない。自分の家を知られた、この女は全てを覚えている、これは大変なことになっちまった…! あくまで自分の評判に対しての恐れに過ぎない。


このスリリングな冒頭のシーンは、ありふれた「無防備な女の性被害の光景」を、「シラフの女とまともな関係性も築けない男の惨めな姿」へと鮮やかに反転する。

 

若き日のキャシーは、医学生の才女で、まさに前途有望だった(プロミシング・ヤング・ウーマン)。そんな彼女が夜な夜な、この特殊な「啓蒙活動」を始めたは理由は何なのか? 彼女の過去にいったい何があったのか?

本作『プロミシング・ヤング・ウーマン』が描くのは、邪悪で無法図な男性性とそれを温存するおぞましいホモーソーシャルのメカニズム、そしてそれを叩き潰そうとする女の復讐譚だ。

復讐は切れ味鋭くスマートに

↓↓↓ここからネタバレありレビュー↓↓↓


7年前に起きた、キャシーの親友ニーナのあまりにも無残な性被害と死。偶然再会した元同級生のライアン(ボー・バーナム)からもたらされたのは、加害者で無罪放免になったアルが、医者として大成し、もうすぐ若いモデルと結婚するという胸糞悪すぎる情報。キャシーは、ニーナを死に至らしめた者たちへの復讐を決意する。

しかし本作はキャシーを通して、こうしたフィクションにありがちな「感情的なオンナによる修羅場」という、それ自体が女性の味方のフリをして既存のステロタイプを強化してしまう、というミスは犯さない。キャシーはあくまでも冷静に、スマートに復讐を成し遂げていく。

 

復讐ターンの中でも、事件を揉み消した校長(女性)の態度が印象的だ。加害者のアルが医者として大成し、講演者として母校に凱旋しているのに対し、手籠にされた上に死んだニーナは名前さえ忘れ去られていた。しかも、彼女は当時、成績最優秀者だったのに!冒頭の連れ込み男と同様に、男の出世と成功の前には、彼女たちは「誰でもいい」し、誰でもない、何でもなくなってしまう。

なお、舞台となるのが医大というのが、本邦の鑑賞者にとってはあまりにも示唆に富む構図ではないか。

 

そんな中、キャシーが唯一、男女としてまともで対等な関係性が築けそうになったライアン。2人の甘く幸福なひとときは、「実はライアンも性加害の加担者だった!」という真相のフラグがビンビンに立ちすぎており、その先はもう、どうやってキャシーを絶望に叩き落とすのか、という観点でしか観れなかったのだが、それはともかく、映画はそのあと、アルのバチェラーパーティという狂乱と怒涛のラストに突き進む。

 

どうして、キャシーまで死ななければならなかったのか。その点において、少なからぬ観客(特に女性)は、後味の悪さを覚えるのではないか。もしかするとあの結末は、「富と名声に守られた男を女が倒すには、差し違えるしかない」という今の社会情勢への皮肉かもしれない。

あるいは、ニーナがこの世を去った時点で、その7年前の時点で、すでにキャシーの心は半分死んでいた、ということのかもしれない。そうそれは、2人の名前が刻まれたネックレスのように。
ラストシーンのメールの文面に署名がなされていたのは、名前という観点で示唆的だ。校長に名前すら覚えられていなかったニーナ。キャシーがニーナとの連名の署名をメールに残したのは、彼女を「哀れな性被害者」という匿名性の闇から引き上げてあげる行為だったのかもしれない。

 

それから最後にもう一つ、終盤の胸焼けするようなホモソーシャル描写、そしてその滑稽な崩壊の描写も一見の価値あり。ぜひ劇場での鑑賞をおすすめしたい。