いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

偽善者に「偽善者」言われたら リア充に「リア充」言われたらもう何も言えない

24時間テレビが終了して、TwitterのTLがにわかに「偽善」で盛り上がっていた。しかし、だいたいこの番組は毎年のようにその手のことが叫ばれている。僕にとっては子供のころから、長い休みに何も成し遂げられなかったことへの後悔と24時間テレビのしでかす唖然とするほどの偽善に辟易するというのは、夏の終わりにほぼ同時に来る風物詩のようなもので、いまさらどうということはない。


偽善者というと、「最強」なんじゃないかと思う「戦略」がある。それは、偽善者がみずから偽善者であるということを言及する、ということだ。僕はこれを「藤木君メソッド」と呼びたいのだが、彼が長沢君にいつもいびられ生きづらそうにしているのはおそらく、彼自身がまだピュアで「偽善者」であるということに思い悩んでいるがゆえに、このメソッドを徹底できていないからなのだ。



奇しくもこれも同じ日本テレビ系なのだが、「行列のできる法律相談所」の先日流れた番組スポットにて、司会の島田紳助が「偽善者と思われてもええやないか」とひな壇に語りかけていた。

周知のとおり、今やかの番組は法律談義なんてほとんどそっちのけで、途上国に学校を作ったり、そのために有名人の描いた絵をオークションにかけたり、いわば「24時間テレビのレギュラー放送版」みたいなことを繰り広げている。昨日も再放送で、なぜだかプロレスラーの秋山や丸藤らが外国の子供たちと運動会をしていた。
紳助の関わった番組はたいていが、しだいにもともとあったコンセプトがあいまいになり、何がしたいのかわからないけどとにかく楽しげなことをやっているというまさに「ヴァラエティ番組」と化し、最終的にはメンバーで南の島へ行くという帰結をたどる。

この一連の流れを、僕は個人的に「紳助産業」と呼んでいるのだけれどそれはさておき、おそらくその番組内で行っているチャリティーについてのくだりで、彼は「偽善者と思われてもええやないか」と発したのだろう(僕が見たのはあくまで番組スポットにすぎないが)。



ふと気づいたのは、偽善者であることに自覚的な偽善者に対しては、ほとんど打つ手がないということ。「偽善者と思われてもええやないか」というこの文言。その「ええやないか」という言葉には、もちろん「それでも俺はこの(弱者を救済するという)行為を続けるけどな」というメッセージが含意されていることはいうまでもない。
つまり、「たとえ俺は偽善者と思われようと、この行為を続けるのだ」というより強烈な善行への意思の言葉が醸成されるのだ。ここで重要なのは、この言葉によってその人の行いが善に基づくものなのか、偽善にもとづくものという判断は、棚上げされるということだ。
そこに残るのは、「それでも俺は善をなす」という言葉と、その言葉の結果だけである。

このことによって、瀕死になれば3倍強くなれるというサイヤ人の設定のごとく、「偽善だ!」という非難の声によりつぶされかけた偽善は、より強い(偽)善となって回帰してくることとなる。


もちろん、「それは“偽善者と思われてもええやないか”ということによって非難を免れようとする偽善ではないか」、というツッコミもできるだろう。だが、そのさらなる非難の声も、それに輪をかけて戦闘力のある「偽善者と思われてもええやないか」を呼び起こすことは避けられない。これと似た弁証法プロセスをとおして、孫悟空が最終的にサイヤ人4までいったことを思い出してほしい。


そう考えると、まだ自分たちを「偽善者」とまでは評していない、まだそこまで踏み切れていない24時間テレビというコンテンツは、それでも救いようがあるということになるのかもしれない。



同じような理屈で、自己言及する「リア充」ほどたちの悪いものはないといえる。
厨二病」や「セカイ系」とともにネット界隈を超えて今や幅広く流用されているスラングだが、この語を本当に「リア充」と呼べるような、いわば渋谷系のチャライ若者までもが使いこなせるようになったのは、人類にとって大いなる損失であることにちがいない。


リア充についての議論(もどき)で、あまりに自明すぎてかだれも前提としなくなっていることがある。それは「すでに勝負はついている」ということ。つまりそれは「出来レース」なのだ。すでに圧倒的な勝利をおさめたリア充に、非リア充がウジウジと非難を寄せるその原動力となっているのは、純然たる僻み、これである。多くのリア充談義は、黙した勝利者に対するこの敗者の恨みつらみの弁にすぎない。

それだけに現在の、リア充自身が「リア充」という「言葉」を獲得した状況。「おれリア充wwwwwwww」とか言い出してしまった今や、非リア充の人々に残された選択肢は、腹をかっさばいて血まみれで死ぬことぐらいしか残されていないのかもしれない。