いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

亡くなったタレントについてたいして思い入れのない人がコメントすることについて

桜塚やっくんのブログに追悼()コメントをしてる偽善者の馬鹿共について質問です。 訃報を見てようやくその人のことを思い出したくせに
「ご冥福をお祈りします、貴方には沢山笑いを貰いました」みたいな
コメントをここぞとばかりに書いて中途半端な偽善を振りかざしてるゴミ共についてどう思いますか?
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q11114542476


タレントの訃報があるたびに、こうした意見が一定数あるわけですが。
ぼくもボーントゥビーワイルドな裸足の十代のころは、世界には善と悪、白と黒しかねぇ!思い入れのないタレントにお悔やみをいうなんて偽善者の所業だぜ!と盗んだバイクで走り出す勢いだったのですよ、たぶん。
けどいまは、 名前を知ってる程度の人物に対して哀悼の意を捧げたくなる気持ちも、偽善とは別の次元であるんじゃないかと、なんとなく思うんですよ。


というのも、テレビというマスメディア上に存在するタレントというのは、ぼくらにとってかなり特殊な存在なのです。
話したことある知人ではないけれど、かと言って赤の他人とも言い切れない。好きか嫌いかは置いといて、家という一番パーソナルなスペースで目にしていた、なんとも不思議な存在なわけです。一方的に知っている知人といいますか。

よくお笑い芸人なんかが、大阪で道行くオバハンが知り合いみたいに肩叩いてくるみたいな話をしますけども、オバハンたちのその行動は、マスメディアの受け手として、非常に素直な反応なのかもしれない。ぼくらは、タレントの一方的な知り合いなわけです。
ちなみに、この一方的な"被認知性"を宿命づけられたテレビタレントのことを、かつて「国民のオモチャ」とタモリは評しました。彼の批評性は恐るべきものがあります。


今や、ソーシャルの普及により「メディアを介してしか知らない存在」が格段に増えました。
そしてそれは、ソーシャル上の人々の死にも、いつしか立ち会うことになることを意味する。たとえばTwitterで、長らくフォローしていた人の死を知ったとき、たとえその人と直接的なやり取りがなかったとしても、それを聞き流すことができるのか。たぶんお悔やみを言いたくなるのではないか。

そんなわけで、メディアを介してしか知らない、そんなに熱烈に応援してこなかった人の死を惜しむのは、それほど不思議なことでないんじゃないかと思うわけです。


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