いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

もし夏休みに帰省した親戚の子供に自我理想と理想自我のちがいを訊かれたら・・・

もうすぐお盆だ。法事などの冠婚葬祭を名目に、親戚一同が実家に集まるという人も少なくないんじゃないだろうか。
その中には当然子供だっていることだろう。
楽しい楽しい夏休み、ただでさえ好奇心旺盛な親戚の子供は、普段は会うことのないあなたの姿に色めきだち、当然いろいろたずねてくるはずだ。


「大学ってどんなところ??」
「会社ってどんなところ??」
「セックスって本当に気持ちいいの??どういうムードで誘うとぎこちなくないかなー??」


きっと親戚一同の中でもっとも童心のわかるお兄さん/お姉さんとしてとおっているはずのあなたは、当然その子の質問の数々をむげにせずにちゃんと答えられなければならない。
純粋無垢な親戚の子供の質問に答えられないもしくは答えようとしないなんて、死んだじいちゃんのかわりに墓に入った方がましだ。



その中で、親戚の子供がたずねてくる質問としてもっとも定番なのは精神分析における自我理想と理想自我って、いったいどうちがうの?」であることは、想像に難くない。


これは困った。
何を隠そう、自我理想と理想自我というのはフロイトの理論の中でもトップクラスにややこしい一角なのだ。どうもフロイト自身、この二つを作ってはみたものの、明確にそのちがいというのを定義しきれていなかったようだ。おそらく、自我理想と理想自我のちがいを感覚的にはわかったつもりになっていたあなたも、その親戚の子供に説明するという状況にはきっと頭を抱えるんじゃないだろうか。



ある人の理論に対する理解度を測るには、実はこのように「素人」へ解説させるというのが、一番手っ取り早い。
「素人」というのは前提知識や専門用語を知らない。
それらを知らない相手ということは、こちらが一から説明しなけらばならないということを意味する。頭でわかっていても人に上手く説明できないというのは、ほぼ「わかっていない」と理解して差し支えないだろう。
さらに、懇切丁寧な説明ができたとしてもあなたによるフロイト精神分析の講義をその子は何十分何時間と集中力を切らさずに辛抱して聞いていられるだろうか。それに、スクーターに乗ったお坊さんが法事に来るまであとちょっとだ、時間がない。


素人に短時間である概念を理解してもらうには、説明する者自身の理解度と同時に、概念を抽象から具体へ落とし込みすぱっとわかりやすくアウトプットするという能力が求められる。


今日はとりあえず、親戚の子供からもし「精神分析における自我理想と理想自我って、いったい何でどうちがうの?」という質問に僕が答えるとしたらを、ご披露しよう(以下、親戚の子供に語りかける体で)。



「いいかい。自我理想も理想自我も、君の理想とする対象が、君の頭ん中で再現された存在なんだ。
例えばここに、マリナーズイチローの大ファンだという人が二人いたとする。
イチローのファン』というのにも、実は二種類いる。

一人目は、イチローに憧れ頑張って野球の練習をして、彼みたいに自分も海の向こうに渡り活躍する大リーガーになりたいと野望を抱いているファンだ。
これがいわば自我理想的なファンのありかた。


もう一人はすこしちがう。
同じようにイチローの大ファンではあるんだけれど、その人は大リーガーになろうとなんか思っていない。彼のファンとしてのあり方は、もっと別の形で発露する。
つまり、彼のバッティングフォームやバッターボックスで振る舞い、外野の守備前にやるあのいつもの柔軟など、文字通り彼の一挙手一投足をマネようとする。衣装も当然、自前で作っているか秋葉原の専門店などでマリナーズの背番号51番を背負ったユニフォームを揃えているはずだ。

君、今なにかに気づいたみたいだね。そう、彼がしようとしているのは実はイチローの「コスプレ」なんだ。いわば、イチローの完コピをめざそうとするのが、第二のファン。すなわち理想自我的なファンのあり方だ。


では、この自我理想的と理想自我的、どうちがうんだろうか。
まずわかるのは、イチローのファンが完ぺきに両者のどちらかに別れるということではないということ。
子供の頃、イチロー振り子打法のモノマネをしていたような子供が、もうすでに立派にプロ選手として活躍しているという話は聞く。
人が常にどちらか一方に振り分けられるというよりも、一人の人間の中で両者の要素が入り交じっているんだ。

この二種類のイチローファン、本当に何がちがうかというと、前者のファンが「イチロー“みたい”に“自分”もならなくちゃいけない」という強い気持ちに切迫されているとすれば、後者のファンは「イチローのマネをしたい」という、どちらかというと願望にちかい。
前者では“自分”と入っているように、やがては自分自身の固有名でイチローのように活躍し、場合によっては彼を超えなければならないということだ。
一方「イチローのマネをしたい」というのは、つまり字義通り彼みたいなかっこうをすることで今の自分というのはとりあえず置いといて、イチローに「なりかわりたい」という願望なのだ。


理想自我というのは、いわば「共同性」をつかさどる概念だ。
たとえば君が、大好きなイチローのコスプレを着たまま街を歩いていたとする。
すると向こうからも、君と同じように全身にイチローのコスプレをほどこした人が歩いてくるんだ。
きっと君は、仲良くなりたいと思っても、嫌な気はしないんじゃないだろうか。
このように理想自我的なものは、マネしたいという願望から入ってきた分、同好の友や同じ志を抱いているものという横のつながりに親和性が強い。
もちろん近親憎悪というのもあるだろうが、それが同じ位相階級の者どおしで繰り広げられることに注意してほしい。
理想自我というのは、人間の横軸をつかさどっているわけだ。


一方、自我理想というのはどうだろうか。
例えばイチローをめざす君がリトルリーグに所属していたとする。
同級生でライバルのだれだれ君が、同じように目標として「イチロー」を掲げていたらどうだろう?
きっと君は、その子より上手くなってやろうとより練習に燃えるんじゃないだろうか。
このように自我理想的ファンにとっては、イチローは唯一無二の到達点であって、同じように「イチロー」をめざすライバルたちは、少なくとも自我理想的なファン同士のそれほど仲良くはなりえない。
いわば人間の縦軸をつかさどるのが、自我理想と呼べるんじゃないだろうか。


繰り返すけれど、理想自我的なファンが自我理想的なファンのあり方より劣っていて、はやく自我理想的ファンのようにふるまえるよう努力しろと、僕は言ってるんじゃない。
闘争心は大事だけれど、闘争してばかりいては疲れる。
自我理想と理想自我、両者ともに人間誰もが誰かや何かに対して抱いている心理の両側面なんだから。」



私見では、世の中は確実に理想自我的になりつつある。
そこですぐ「大きな物語」だとか言いかけてしまいそうになるが、話がマクロに飛ぶと一気に凡庸になりそうなのでやめておく。そうでなくとも、先のコスプレやオタクといった身の回りのミクロな現象を見ても、やはり何か首尾一貫した規範が最初にあって、ネガティブな言い方をすればそれにみなが束縛されている、という雰囲気は確実に弱くなっていっている。非常に感覚的な表現であるが、現象のすべてを支える社会に軸が通ってなくて現象たちがその表層を上滑りしていくという印象。

従うべき規範や理想像という軸が一本通ってなくて、その分それは「リベラル」が主流となった価値多元主義社会であるからいいことには変わりないが、同時にどこか“不全感”のようなものを僕らが感じているとすれば、それは自我理想的なものの失墜に原因の一端があるのかもしれない。


とにかく今年のお盆、お坊さんのお経に辛抱できなくなった親戚の子供に「自我理想と理想自我ってなーにぃ?」とぐずられたら、「イチローのファン」メソッドで切り抜けて欲しい。


それでは、Have a nice BON!!