いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

人はいつ「終わる」のか

最近、ある本の中である意味すごく「怖い」箇所を読んだ。

それは、西武百貨店の元経営者でパルコやセゾングループも創設した辻井喬(=堤清二)と、社会学者でフェミニスト上野千鶴子の対談本、『ポスト消費社会のゆくえ』にてだ。


それは今では考えられないくらい、百貨店が消費者だけでなく大衆文化を牽引しようという気概があった時代、渋谷に西武百貨店やパルコが建ち例の糸井重里らが手がけたコピーで行け行けどんどんだった時代の話だ。
日本の百貨店では今でも美術展というのを開催されているみたいだけれど、あれは百貨店発祥の地の欧州ではあり得ない話で、これもモノを売るだけでなく消費者マインドを文化的に啓蒙していこうとした辻井さんの発案だったという。そんな美術展を百貨店内で始めたころについての対話の箇所。

上野 (中略)ベンチャービジネスのなかには当たりハズレがあって、現代美術ははずれるとただのガラクタですね。
辻井 そうですね。その判断は難しい。途中までよくても、「あっ、この作家、ダメになった」と感じることはありますね。途中で創作方向がわからなくなって、くだらんものを創り出したりすることはよくあります。現代美術の作家の場合、半分ぐらいそうです。
上野 具体的に名前を挙げてもらってもいいですか?
辻井 強いて挙げれば、フランク・ステラとかオルデンバーグ。途中までとてもよかった。しかし、どこかでわからなくなってしまった。だったら、そこで創作活動をやめてくれればいいんですが、なおも続けている。
上野 創作活動をストップするわけにはいかないんですね。
辻井 ジャスパー・ジョーンズさんから、「仲間のなかで70年代まではよかったけれど、それ以後ダメになったというような場合、どういうふうに忠告したらいいかわかんないよ」と愚痴をこぼされたことがあります。(中略)


『ポスト消費社会のゆくえ』pp147-148

都合のいいときだけ飼っておいてダメになったら捨てるのか、という芸術家目線での「ポイしないでください」的な指摘もありうるが、とりあえずそれはここでは問わない。
僕が「怖い」と感じたのは、人が人に使い捨てられるという芸術界の実態というよりも、人が実際に「ダメになっ」ていくんだ、ということ。強いて言えば人が「終わる」ということの方なのだ。
もちろん、それは何もその芸術家についての客観的な事実ではない。あくまで辻井さんの主観なのだけれど、ある人があるときを境に、決定的に時代の潮流や、その道の最先端からズレていってしまう。そしてそれは不思議と一人でなくおそらくみんながみんな感づいてしまうのだ。その時、ある人は「終わった」とささやかれる。
 




これに似た事例を、つい昨日の深夜(今日の早朝)に偶然見た。それはあの、朝までなんとかテレビという番組にて。
昨日のその番組の席には、ある一人のジャーナリストと名乗るおっさんが座っていた(あまりにかわいそうだったので名前は書かない)のだけれど、その人の発言が決定的に周りとズレていたのだ。口を開けば、「責任をとれ!」とか「しっかりしろ!」と政治家やなにやらを罵るのだけれど、実のある話をしようとしている他の論者と、決定的に乖離している。専門的な話でよくわからなくても、そのことだけは不思議とわかるのだ。

さらにヘコむ事実がある。そういうとき、常識的に考えれば「あなたの発言はズレてるよ!」と誰かが指摘すればいいはずだ。だが実際はちがうのだ。おっさんが話している間、他の人はむしろ、そのおじさんが気持ちよく自説をしゃべり終わるまで、うんざりしながらも黙って聞いていてあげていたのだ。あの傲慢な司会者田原総一朗でさえ、おっさんの話にはほとんど口を挟まなかった。むしろ穏やかに対応してさえいた。それはそこにいた全員、もちろんそのおっさん本人以外が「この人はもう“終わった”人だし、なに言っても話が通じないから黙ってくれるまで待っとくのが一番の得策だろう」と、直感的に了解していたからじゃないだろうか。





そう、さきの辻井氏の話でも何が怖かったかというと、「終わった」本人は自分が「終わった」ということに気づいていなくて、いつまでも続けているという場合が多々あるということだ。自分では一生懸命やっていても「終わっ」ているのだからどう足掻こうが、もう手遅れなのだ。


いやもしかすると、「終わった」ことに自分でも薄々勘づいているという人も、なかにはいるかもしれない。しかし、おそらくそういった人も、自ら「私は“終わった”者ですから」なんて口が裂けても言えないはずだ。だって、それなら以降「私の発言は全て無意味です。聴くだけ徒労に終わります。私はいてもいなくても一緒です」と、言っているようなもんなんだから。






でもこのだれそれが「終わった」という話、実は難しいところもある。例えばキングカズ。彼はこれまで何度も「終わった」だの「ロートル」だの言われてきただろうけれど、不思議と今は「終わった」感覚はない。そう、「終わった」とは実際的なその人のピーク、例えば若さであったり成績であったりの頂上を意味しないこともある。
これは余談だけれど、今回の南アフリカ旅行もとい、ワールドカップ南アフリカ大会に出立した日本代表に、けっこう本気で精神的支柱としてカズを入れてほしいという声がある。4年前の比較的期待を持たれていたジーコジャパンの戦前にもそういうことは言われていた記憶はあるが、そのときはもっと少数派の意見にすぎず、どちらかというと「何をバカな」という嘲笑の方が多かった。今回の岡田ジャパンが、日本代表史上希に見る期待されてないチームであるだけに、「カズがいればもしかしたら…」とサポーターは思うのかもしれない。





話を戻そう。
人が「終わる」ということについてだ。僕はこれが芸術家や有名人のみに限った話ではないのかもしれない、とも思う。市井の人間だって、「終わった」と言われるときは終わるのだ。
ものすごく規模の小さい話だけれど、こういうことはなかっただろうか。小学校の時に番長的存在だった友人が、中学に入り、別の小学校から入ってきたもっととんでもない奴を前に、急にシオらしくなっていったということ。僕は実際にそれを目の当たりにして、そのとき確かにこう思った。「××ちゃん、終わったのかも」と。学校で、会社で、家庭で、もしかすると僕らはいつかは(すでに?)言われているかもしれない、「あなたは終わった」と。


だから、「終わった」と言われることに、有名無名は関係ないわけだ。というわけで、「終わった」ことへの、というよりも終わらないための対処法を考えると、それは大きく分けて二パターンある。

終わりを曖昧にする

スパッと芸能界を辞めた上岡龍太郎なんか見ていると、この人頭いいなぁと思えてしまう反面、実はこの人も「終わった」と人から言われるのが怖かったんじゃないかなぁと推測する。だから予め「引退」したのではないか。
さらに、「終わった」と人から言われずかつ、定期的に芸能界に戻ってきて集金していくという「セミリタイア」という「産業」を思いついたという点では、大橋巨泉という人はなんて強欲なんだ、とも思う。
そしてなんといっても、冒頭で紹介した辻井さん。じつはこの人も、経営者時代に西部グループを身売りの危機にさらしたあげく、それでも辞めれずウジウジ地位に居座ったわけで(もちろんそこには責任を感じていた面はあるだろうけれど)、本来なら「終わった」と思われても仕方ない境遇にある。
でも、この対談を読むに失敗の歴史でありながら氏は生き生きとその記憶を反芻しているし、そこに「悲壮な過去の人」という印象は抱けない。それはおそらく、この人が経営者・堤清二だけでなく、作家・辻井喬というもう一つの顔があったからかもしれない。このことは少し対談でも触れているが、結果的にこの二足のわらじの状態が、「終わった」と他人から思われないことへのリスクヘッジとして機能していたわけだ。

始まらないこと

「終わりを曖昧にする」ことの方法は、今見てきたようにいっぱいあるが、もう一つ一番簡単なことがある。すなわち「始まらないこと」である。

北野武の映画のなかに「キッズ・リターン」という作品がある。デビュー当時の金子賢(まさかこの後本物のリングに立つとは彼自身思っていただろうか?)と安藤政信を不良高校生役の主演に抜擢したこの作品ではいろいろあった末、最終的に挫折して帰ってきた二人が、母校の校庭を自転車の二人乗りで蛇行するシーンで終わりを遂げる。そこで、「俺たち終わっちゃったのかなぁ」 「まだはじまっちゃいねぇよ」という二人のやりとりで唐突に久石譲がかかり、終わる。


二人のこの最後の会話、僕の周りでは結構「いいセリフ」的に受容されている感じなのだけれど、本当にそうだろうか。けっこう両義的ではないだろうか。

これをポジティブに受け取るなら、これからはじまることへの助走に聞こえるかも知れないけれど、でも「はじまってすらいない」、始まることもできないでいる、とも読み取れる。

ただ、金子はヤクザの世界で頭角を現しかけていたし、安藤はボクシングでいいところまで行きかけていたのである。つまり二人とも、別々の世界で「はじまっていた」わけで、そこからの挫折は一応は「終わり」を意味する。そういう意味で、この「はじまっちゃいない」と返すことは、金子なりに「終わった」ことを隠蔽していたのかも知れない。


とにかく、このやりとりは、そこまで希望だけに満ちあふれたもんじゃないだろう。





でも社会的存在であり続ける以上、厳密には誰も「はじまらない」という方法をとることはできない。誰もが他人から「終わった」と言われるかもしれない危機にさらされているわけだ。学校の後輩から、会社の社員から、はたまた彼女/彼氏、もしくは奥さん/旦那さんから、いつかはみな「終わった」と宣告されてしまうかもしれない。そして、もしかすると誰かの目に映る僕も、もう「終わった」のかもしれない…。