いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

クリエイターだって「ファンのツボ」だけ圧しつづけてはいられないっ!


最近ドラマ「古畑任三郎」のシリーズを見かえしている。いや、見返しているというのは不適切で、机に向かって書き物をしながらBGMとして録画した古畑を「聴く」のである。子どもの頃からこの番組をテープがすり切れるほど見たおしたぼくは、情景を瞳に映さずとも今どういうロケーションで、どういうカット割りで誰と誰が話しているかなんて、手に取るようにわかるのだ。


そんな誰も得しない自慢話はともかく、このシリーズ、現時点で連ドラ版がシーズン3までと、スペシャル版の数作があるんだけれど、それを順に追って見ていくと、作り手(このドラマの場合、なんとなく脚本の三谷幸喜の作品という印象が強いのでここでは彼のことを指すが)の作っていた当時の心情が分かるような気がしてくるわけだ。

古畑シリーズにおける「ファンのツボ」


少し説明しておくとこの刑事ドラマ、あの「刑事コロンボ」と同様に推理小説の「倒叙もの」というスタイルでなりたっている。小説もテレビも推理ものというのは、何者かによる事件が発生し、後から登場した刑事なり探偵なりがそれを推理し、犯人を突き止めるというのが一般的だけど、この「倒叙もの」は文字通り、一般的な推理ものの「叙述を転倒」させる。つまり時系列的にはもとに戻り、犯人の犯行の後に来た刑事や探偵が到着して推理を行うのだ。畢竟それは、予め読み手や視聴者が正体を知っている犯人と探偵ないし刑事との「対決」を中心に描かれることを意味する。

断言しよう。古畑任三郎ファンのその大半は、田村正和演ずる古畑と、毎回登場する大物ゲスト陣らによる、「夢の演技対決(競演?)」に魅せられていたのだ。そしてそれを成り立たせるためには、あらかじめ犯人が誰かわかっているこの「倒叙もの」というスタイルが不可欠であったのは言うまでもない。これがいわば、古畑任三郎の「ファンのツボ」なわけだ。


この古畑任三郎シリーズはその人気でスペシャルも挟みながら2、3と続いていくのだけれど、シーズン2の風間杜夫が出演する回「間違われた男」以降、徐々にだが確実に、この「倒叙もの」に代表される「ファンのツボ」の部位から外れていくことになる。


小学生の頃、強烈に覚えている。この風間杜夫が犯人の回が、僕の中では強烈に「つまらなかった」のだ。面白くて覚えているならわかるが、つまらなくて記憶に残っているというのは、相当なもんだ。
つまりそれほど、この回の「ファンのツボ」の外しっぷりに、当時の僕の失望は大きかったということなのだろう。
だがそれ以降、特に3では、1と2までにこのシリーズが作り上げてきた「ファンのツボ」を逸れていこうとする力学が駆動していることが、子どもながらにありありと感じられた。

ファンにとってありがたくない「ライヴバージョン」

これは、他の分野にもあることなんじゃないだろうか。
例えば、ミュージシャンのライブなどに行った際にオーディエンスが失望するのは得てして、「ライブヴァージョン」に対してだ。ステージで歌われている曲は好きなナンバーなのである。好きなんだけれど、部屋でCDで聴いている、もしくはMP3プレイヤーごしに聴いて耳に馴染んでいる「普通のヴァージョン」でないだけに、喜びも半減する。

あと、「みんなも歌って!」のパターンもある。その人の代表曲などのサビなどにさしかかったときに、ボーカルが突如として会場にマイクを向けちゃったりして、観客に大合唱を煽るわけだ。これもマイクを向けられている当の観客の少なからずが、「ちげーよ、おめーの歌聴きに来たんだよ」と思ってるんじゃないだろうか。これらも、僕が失望した古畑の回と同様、一種の「ファンのツボ」を外している行為なのだ。

クリエイターが「ファンのツボ」を外すことの真意

では、なんでこうやってクリエイターは、時に「ファンのツボ」を意識的に外そうとするのだろうか。それは単なるイジワルなのだろうか。それとも、常に新しいことをというクリエイターとしての義務感なのだろうか。


思うに、これは「飽き」の問題なのだと思う。

これはもちろん推測だけれど、風間杜夫の回の当時、パート2も終盤をむかえ古畑任三郎はすでに計20件以上の事件を、毎回同じ「倒叙」のスタイル解決していたのである。そりゃ、いくら脚本という「クリエイティブなお仕事」だって、惰性になってくるだろう。


ミュージシャンだってそうではないか。作詞作曲というと一見クリエイティブだけれど、それが一つの楽曲として結実した後はどんなにきれい事をいおうが、同じ譜面を見て繰り返している以上一種の「反復」である。

さらにミュージシャンなら、レコーディングの時点で何十回、下手したら何百回も同じメロディを演奏しているし、同じ歌詞を歌っているのである。それをさらに、ライブだとかいって全国津々浦々を何十公演も行脚するとなったら、そりゃ自分で作ったお気に入りの曲だろうとさすがに飽きだろう。同じ繰り返しのそれの、どこが「クリエイティブ」なんだよ、と。おそらくそういった「飽き」の倦怠感からくる苦痛によって、あるときクリエイターたちは「ファンのツボ」から逸れたくなってくるんじゃないだろうか。

ファンの側に求められる「開拓者精神」

しかし悲しいかな、たぶんそんな「飽き」の苦痛なんてファンにとっては知ったこっちゃないわけである。特にその多くは同じツアーのライブは一回限りの思い出になるのだから、自分たちの好きなあの曲この曲を、いつものあのアレンジで、おまえの声で聴きたいぞと、思っているわけだ。だから、クリエイターならではの悩みは、おそらくファンには通じないのである。
古畑だって、未だに続編を待望する声は根強い。もう50人くらい殺人事件に犯人を逮捕しているのだから、そろそろ彼を「退職」させてあげてもいいだろうとも思うのだけれど、それほどまでに古畑の見つけた「ファンのツボ」の快感はやみつきになる類のものなんだろう。

だけれど、ファンの側もいわば「開拓者精神」というのを持っても悪くないんじゃないかとも、思えてくるのだ。

というのも、今回見かえした古畑任三郎。全体を見てみると意外や意外、実は前述した「つまらなすぎて覚えていた」風間杜夫の回が、一番面白かったのである。

なぜかつての僕にとって「古畑任三郎史上もっとも古畑任三郎らしくない回」が、今見て面白く感じられたのかというと、これは感覚でしかないが、当時の作り手、三谷幸喜を代表するスタッフがこの回をものすごく楽しげに作っていたんだろうなということが、ありありと伝わってきたからだ。その楽しげな様というのはおそらく、それだけに風間杜夫の回で「ファンのツボ」からの逸脱を許された(? そのプロセスはわからないけれど)ことに対して、スタッフのクリエイティビティみたいなものが目覚めたときだったんじゃないだろうか。。


それに、よく考えてみれば「ファンのツボ」を外したことも、あらかじめ「ファンのツボ」がどこにあるかを知っているファンでないとわからないことだ。そういう作り手の遊び心につきあえるファンになるのも、悪くないんじゃないかと今回思ったわけである。