いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

「無縁社会」と試されるネットの可能性

今夜、NHKでは追跡!A to Z「『無縁社会』の衝撃」が放送されていた。


一月に放送されたNHKスペシャル「無縁社会」のオンエアー中にTwitter上の#muenなどでつぶやかれた発言や反響をうけ、今回は前回よりぐっと年代を下げた30代や20代の、今まさに無縁の状態にあり、自分の将来に不安を抱えているという人たちを取り上げた内容だった(話は逸れるが、テレビとTwitterのインタラクティビティというのは、これぐらいがちょうどよいのかもしれない。「生放送中にTwitter上のつぶやきを紹介…」みたいな企画を何度か見た記憶があるが、どうも上手くいかない。前者と後者では、流れている時間のスピードからして違うのだろう)。


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僕の視聴後の感想を一言で言えば、「半信半疑」。
まず、「疑」の部分。孤独の環境があたかも絶対悪であるかのような描き方には違和感ある。孤独の中から醸成されるものだってあるだろう。
そしてもう一点、この「無縁社会」という言語化による言説効果というのも、実は見逃せないと思う。「寝た子を起こす」ではないが、こういう「事実」を伝えられたことそのものによって、「“無縁死”を知りおびえつづける人生」を送ることになってしまった人が、本来そこにあったはずの「“無縁死”なんて全く知らなかった人生」と引き替えに失ってしまった幸福と、背負い込んだ孤独感や不安感、劣等感などというものを、僕らは見逃してはいやしないだろうか。北野武の映画のセリフをもじれば、「無縁死ばっか考えてたら、死にたくなっちゃうよ」。


「無縁死」に対する不安や恐怖というのは、あくまで生者である我々が「後付け」した感想に過ぎない。もちろん「無縁死者」たちが不安や恐怖なんて本当は全く感じていなかった、なんてことを言うつもりではないが、「無縁社会」というものに対して自分のとるスタンスを未だ決めかねているという人は、もう一度自分の感覚を確かめてみた方がいいと思う。自分は「死を孤独の中でむかえるの怖い」のか、それとも単に「死ぬのが怖い」のか。後者の人は大丈夫だ、誰だって死ぬのは怖いはずなのだから。

これが、「無縁社会」という言説に対して僕が抱く半信半疑の「疑」の部分。


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でも前回、そして今回の番組中に取り上げられた人たちのように、現実問題として「無縁」に苛まれている人もいるのだろう。さすがの僕も、その人たちにまで「気の持ちようだろ」とは言えない。これから書くのはだから、無縁社会に対しての僕の「信」」の部分について。


興味深かったのは、番組中でTwitterがあたかも「孤独な者のツール」という印象を与えかねない言われ方をしていたということだ。
ここには先月のNHKによる「激震 マスメディア」でのやりとりの「仕返し」という意味合いがあったかどうかはスタッフの深層心理を読み取れない限りさだかではないが、それはともかく、現実に番組中にTwitter上でユーザーが無縁社会の不安をつぶやいたということだけは、事実だ。


それは言い換えれば、つぶやいているだけでは癒えない孤独もあるし、癒されない人もいるということだ。

でも、考えてみたら変ではないだろうか。今現在急速に台頭しつつある「ソーシャルメディアTwitterでは、無縁社会は防げない?そこには、日本のネット社会が結局は「ネタでしかない」という事実の証左があるのではないだろうか。
日本のネット上のバーチャルコミュニティが抱える問題として(反面それがよい面に反転することもあるんだけれども)、その影響力は「ネタの域を出ない」ということにあると、僕は常々思っている。それがアメリカ帰りの某氏による「日本のWebは残念」という発言のゆえんでもあるのだけれど。

「ネタの域を出ない」ということは、現実的な関係に結実しないということを意味する。例えばこれまで「ネット婚活」などをのぞけば、ネットで出会った相手との結婚なんて、ふつうはできなかった。なぜなら、結婚は「ネタ」ではできないからだ。同棲だって、「ネタ」ではままならない。


そして、そんなネットでの文字や画像を介してなされるやりとりはもちろんコミュニケーションではあるのだけれども、朝起きたら当たり前のようにそこにいて、当たり前のように「おはよう」と声をかけてくれるような存在との「インフラ」のごとくあって当たり前のコミュニケーションとは、やはり質的に異なる。


そのように、無縁や無縁死(に恐怖を抱く人のそれ)を食い止めるのに、ネットだけでは不可能な部分もあるだろう。例えば、今まさに死に絶えようとしている人が、Twitterを介してできるのはせいぜい「孤独死なう」や「無縁死なう」とつぶやいて、フォロワーがそれに「お悔やみなう」とか「追悼なう」と返すことぐらいしか、僕は発想できない。ようは気休めに過ぎない。


だから、肝心なのはネットをとおしてできた関係性を、いかに現実にフィードバックして安定した「縁」として結実させるか、ということだ。これまでもそれは、趣味を介したオフ会としてあったのだろうけれど、そのダイナミズムはまだまだ小さいし、浅い。「縁」というのは婚姻関係でもいいし、お隣近所に住むことやルームシェアでもいい。とにかくネットをとおしてネットに留まらない恒常的で、安定した「縁」を作り出すことが重要なわけだ。


少し前に「つい結」なるものについての記事が話題にあがったが、そういうネット上から生まれる結婚という法的な制度も、そんな「安定した縁」のひとつだろう。それは、既存の「ネット婚活」とはまた少しちがう。というか全然ちがう。なぜなら僕が言わんとしているそれは、現実社会の中である人とある人がたまたま出会ってそこから発展するような、いわば「ネット自由恋愛」なのだから。


ネットのゆるくて心地よいつながりをとおして、あえてめんどくさい現実的なつながりを作っていくという、なるほどそれは逆説的な営みだ。もちろんそこには、ネットの負の側面としていつもあがる匿名性の危険とか、そういったもろもろの印象から生まれる「ネットでの出会い」への未だぬぐえわれることない偏見など、「障壁」はまだ多い。


雇用も地域も家族形態も液状化しつつある無縁社会の不安に晒された人を前に、そんなもろもろの「障壁」を突破して日本のネット社会が「ネタ社会」の域を脱し、リアルに作用し始めるか。それが今試されているのかもしれない。