#東日本大震災 の「震災ポエム」問題 これが恐れていた事態かもしれない
震災から5年が経ちましたが、そんな中、「震災ポエム」がTwitter上をにぎわし、批判を受けています。
#東日本大震災 はお前らのポエム発表会じゃない pic.twitter.com/wkEMAG2boL
— Cキラ (@CS_JAPAN) 2016年3月11日
簡単にいえば、3.11に便乗して、お悔やみムードのTwitter上にうっとりしながら美辞麗句を並び立て、RTやいいねを稼ぐ行為のことだと思うのですね。こういう人たちが、カッと目を見開いたまま「黙祷」と投稿したのでしょう。怒る人がいるのもわかります。
「3.11」と書いただけで何か伝わると思うなよ - 倒錯委員長の活動日誌
以前、「3.11」が記号になってしまうことを恐れる、と書きました。たとえば「199Xの核戦争」だとか、「セカンドインパクト」だとか、フィクションにおけるそうした「過去の大災厄」は、登場人物に影響を与える一種の「記号」です。
それと同じように時が経つにつれて、「3.11」という記号だけで、送り手と受け手が何かを共有できたかのように錯覚してしまう事態がおきるのではないか、と考えたのです。「震災ポエム」は、まさにそうした不安が現実になった事態に思えます。
当たり前ですが、「3.11」は複雑怪奇な現実で起きたことです。現実は多面体であり、体験した人の数だけの固有の体験があるはず。しかし、それが「記号」となってしまった途端、体験は並列化され、その生々しさは失われてしまうでしょう。
例えば、こうしたポエムの常套句に「あの日を忘れない」があります。この言葉にはふたつのツッコミを入れたい。ひとつは忘れるわけねーだろなに当たり前のことを言ってんだバカヤロウというツッコミ。そしてもうひとつは「忘れない」のは「記号」としての「3.11」であって、内実はともなっていないのではないか、というツッコミです。
ただ「震災ポエム」批判は、美意識の域を出るものではありません。震災ポエマーたちが何か罪を犯したとはいえない。それに、彼ら彼女らだって、3.11について全く考えていないわけではなく、これは程度の問題です。それはどこまでいっても、個人の美意識の域を出ません。
個人的には「恥を知れ」と思いはしますが、最終的にはポエマーの方々が自分自身でその愚かしさに気づき、顔から火が出る思いをするしかありません。そのことをいまから祈っておきます。