いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

心・技・体という制度について

朝青龍が「不祥事」を起こした後で、バカの一つ覚えのように何かと繰り返されるようになったのが、この「心・技・体」という言葉だ。しかし、彼に対するバッシングが激しくなっていくにつれ、どうもこの「心・技・体」が今まで角界の「セルフマネジメントシステム」としてうまく働いていたのではないかと、思えてくるのだ。


力士には心・技・体がそろっていなければならないとは言うけれど、よくよく考えてみればどんなスポーツだってそりゃそうだろう。嫁が出て行った翌日に投げたピッチャーはそりゃ打たれるだろうし、インフルエンザ感染中のボクサーが世界戦でベルト奪取するのはかなり望み薄だ(というか試合させてすらもらえない)。どんなスポーツだって、心・技・体ともに万全であることに越したことはない。


しかし角界でのこの「心」の重要性は、「伝統」という膜でさらにコーティングされ、より強固になっている。心・技・体がそろっていなければ勝てないというよりも、「品行方正に相撲道を歩む心」がなければ「勝てない」、逆に言えばそんな「心」さえそろえれば「勝てる」とまでその重要度や肥大化し、ここに「心」と勝ち星の「等価交換」という「擬制」がなりたつ。


でもあくまでそれは擬制だ。
擬制なのだけれど変な話、心から「心」を持っていなくても、「心」を信じたつもりになって、そのふりをして相撲をとり勝ち星を重ねて行くと、不思議と本当に礼儀もなってくる。勝つことが「心」なんか全然まったくうんともすんとも関係ない、本人の「実力」や「才能」の結果に他ならなかったしても。「信じた者は救われる」ではないが、そのことを「心」との交換によるところの、「心」があっての「強さ」なのだと本人が信じこんでしまえばこっちのものなのだ。そしてさらに、そんな「心」のある力士が勝ち星を重ねていくと、周りの力士も勝ちたいから彼のように「心」をもつ、あるいはもったつもりになろうかなとする。そのようにして、これまで角界における「心・技・体」は、ある種の自浄作用、セルフマネジメントシステムとして存在したのではないだろうか。

しかし、物事にはたいてい「例外」というものが存在する。いつもの通学路にいつもはない犬のウンチがあるかもしれないし、いつもニコニコ笑っている陽気な人だってありえないほどブチぎれることだってあるだろう。角界のこの「心・技・体」システムにとって「例外」だったのはすなわち、「心」と「勝ち星」の等価交換装置という「擬制」を学ぶ間もないほどに圧倒的に強い「逸材」だ。
だから、朝青龍の現役当時に彼が「不祥事」を巻き起こすたび、「心・技・体」を各識者が持ち出していたのは「何を今さら」だったのかもしれない。なぜならそれは上手く機能しなくなったシステムを、件の機能しなかった対象に対しもう一度、全く同じやり方で機能するよう働きかけているようなものなのだから。


システムが機能しなくなったらどうすればいいか。完全に取っ払って新しい別のシステムを構築するか、既存のシステムを少々いじって改良するか。朝青龍の引退にまで事態がこじれていってしまったことから少なくともいえるのは、相撲協会という組織には例外事例に際してシステムを再構築するその能力が全く欠落していた、ということだろうか。