いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

ラサール石井『笑いの現場』

ラサール石井といえば、僕の中では一時期「世界まる見え!テレビ特捜部」に盛んに出ていたなとか、「明石家マンション物語」の大日本意味なし教にて教祖の弟子チクリを演じていたなとか、それぐらいの印象しか残っていないのだけれど、そんな彼がコント赤信号としてデビューしてから笑いの第一線にて見聞きしてきたことを初めてノンフィクションの形で書き下ろしたのがこの『笑いの現場』だ。第二部には明石家さんまダウンタウンなどを個別に評論した「評論編」もあるのだけれど、何にもまして興味深いのは前半部のノンフィクション編だ。なぜなら、彼がこの中で述懐していることの多くは、今のお笑いにはなくてはならない「変化の起こった現場」でもあるからだ。
今日はそんな『笑いの現場』の、特に前半部を追ってみたい。題してプチお笑い考古学だ。なお、引用部のページ数は煩わしいので省いた。



中学受験で志望校の灘高に落ちた著者が、まだあまり有名でなかったラサール入学を経て、憧れの青島幸男と同じ早稲田大学へ進み上京。当初は青島と同じ放送作家志望だったが、「どうしても演者としての可能性をためしてみたい」と思うようになり、当時旗揚げした劇団テアトル・エコーの養成所に入る。そこで出会ったのが、渡辺正行小宮孝泰だった。のちにこの三人が、コント赤信号を結成する。

渋谷道頓堀劇場に所属を映した彼ら。「『てなもんや三度笠』をつくった澤田隆治プロデューサー」に見いだされ、このすこし後にテレビ界に進出することになるのだが、現在のお笑いブームの一端を担うある編集方法は実はこの澤田という人物によって「開発」されていたということがわかる。彼が手がけた「花王名人劇場」という公開録画番組の収録の際、澤田は複数のカメラで一部始終客の表情を映していたらしい。

 なんと澤田氏は、その客の笑いを編集で随所に差し込むことによって、ウケていない漫才も大ウケに見せるというマジックを使ったのである。
 つまり、あまりウケのよくない新人コンビのギャグの後に、やすし・きよしに爆笑する客席の画をインサートし、笑い声を少し足せば、いかにもそのコンビが馬鹿ウケしているように見えるというわけだ。

エンタの神様」ですねわかります。
今では客席を映すという手法は皆無に等しいが、笑い声に冠しては、「エンタ」で大いに多用されていると思われるあの「悪名高き」な編集方法は、実はすでにこの澤田によって70年代には開発されていたということだ。


渡辺がリーダーとなり、ついに彼らはその澤田に出会い、彼に見いだされ「花王名人劇場」にてテレビデビューを飾る。時代は漫才ブームのまっただ中、当時はネタにもある変化があったという。

寄席ブームの頃のネタと、この時代のネタはかなり違っていた。それは、「きみ、ぼく」と呼びあい、実際にはありもしなかった結婚や引っ越しを話題にし、起承転結のある「よくできたお話」であった従来のネタから、うそ臭い部分をすべてとっぱらった、リアルなネタであった。
(…)
 従来の漫才においては、そこで二人あるいは三人の人間が喋っている時間、それは現実ではない時間であった。すべては虚構として存在していたのである。
 しかし、テレビで育った若い世代、物語よりもドキュメントを好む世代の人間には、それでは通用しなかったのだ。そこにいる人間は、あくまでリアルタイムにそこにいるのであって、常に観客と同じ空気を呼吸していなければいけない。
 だから、「ねえきみ、最近結婚したらしいね」などという会話は、まったく成立しないのである。

どういうことかというと、それ以前までの漫才のネタでは、ボケとツッコミが「きみ、ぼく」という「配役」をこなしていたということだ。もちろん現代のお笑い芸人だって、漫才の途中に話すことを実生活で実践しているとは限らない。笑い飯の二人が本当に鳥人を信じている可能性は、極めて低い。だからそれも「虚構」なのだけれど、現代の漫才のネタではボケもツッコミも、あくまで「本人」だということだ。ネタ中だって西田は西田だし、ボケているときも哲夫は哲夫なのだ。その体(てい)はもちろん彼らを見るお客さんの側も前提知識として持っている。そういう意味で、彼らは「常に観客と同じ空気を呼吸して」いる。これは文学でいうところのリアリズムのようなものかもしれない。

知っての通り、これ以降漫才のネタの形式はずっと変わらず今も続いている。このあたりに「漫才」が「喜劇」や「コント」はたまた「演芸」と袂を分かった、大きな転換期があるように思える。

そんな漫才ブームも一段落し、漫才ブームを飾ったヒーローたちがふたたび、フジテレビの「オレたちひょうきん族」に結集して切磋琢磨することとなる。この番組の画期的なところは、よくいわれるとおり「漫才コンビをすべてバラバラにばらしてしまった」ところであるのは有名で、今の「めちゃイケ」「はねトビ」に通ずるユニットコントの原型と見なされているが、それ以上にアドリブを果敢に取り込んでいったのがこの番組の功績だったのかもしれない。著者の語るかの番組の「裏側」からは、当時の現場の真剣な雰囲気が伝わる。

当時、「ひょうきん族」のスタッフはバラエティーにとっては最高のスタッフだった。美術さんは、ただ発注されたものをつくって組むだけという感覚ではなく、自分たちも番組に参加しているんだという意識で働いていた。だからちょっとした飲み屋の壁に貼ってあるメニューなどにも、必ずギャグが書いてあったりした。
 また、カメラや音声さんの技術スタッフも優秀であった。だいたい「タケちゃんマン」のワンシーンを録るためには、いつも三〇分から一時間ぐらいかける。(・・・)なかには、ソーッとガンマイクを近づけ、副調整室でタレント同士の雑談を聞いていたりする場合もある。
 それはなぜかというと、「ひょうきん族」の場合は本番一発の面白さやアドリブがけっこう番組を支えていたので、一応ドライリハやカメリハもするが、本当に笑わせたいことは本番まで取っておかなければならない。「ひょうきん」の場合、そのアドリブはその直前まで喋っていたタレント同士の雑談から出てくる場合が多かった。だからソーッと聞いていて、どんな展開になるのか予想をつけていたのである。


それってもしかして、と・う・ちょ・う?という声が聞こえてきそうだが、当時のスタッフのこのようなスタッフの執着心もとい「熱意」が、本番で演者が繰り出すアドリブへの柔軟な対応を生んだのだろう。ただ僕はごくごく個人的な感想として、そんなアドリブから生まれた名キャラクター「アダモちゃん」を、島崎俊郎は現代にまで引っ張らなくてよかったとは思う。
そんな「ひょうきん族」も89年に終わるが、著者によればこの当時はフジテレビ自体が一介の番組にすぎないこの番組の、「ひょうきん族」的発想に突き動かされていたという。同時にそんなフジテレビにさらに遅れをとっていたほかの局による必死の巻き返し、「フジテレビ化」が始まっていた。90年代初頭の明石家さんまを巡るエピソードの中驚くべきは、フジテレビと他局の間にまだ歴然と存在していた差である。

(引用者註 「さんまさん」が「小堺一機くん」と始めた「さんま・一機のイッチョカミでやんす」の)記念すべき一本目のコントの本番の時、さんまさんがリハーサルとは違うセリフと動きをした。これは「ひょうきん族」などではおなじみのことで、さんまさんを知っていて、リハを見ていればおそらくそうなるだろうという予測のできる展開であった。しかしその時チーフのカメラマンが大きな声で「違う!」と叫び、収録を止めてしまったのだ。
 さんざん「ひょうきん族」が放送され終了したあとの時代で、他局ではこれほど遅れているのかと驚かされた

どうだろう。今では視聴者だってさんまの「本番は茶の間用、リハはスタッフ用」という格言(?)を知っているくらいなのに、わずか20年前のテレビ界はフジテレビをのぞき、このレベルだったということだろうか。むしろ今では、トークのリハーサルは紅白歌合戦の歌の合間に行われる、どうみてもぎこちのない“不自由なフリートーク”(聞いた話では紅白ではフリートークも二回リハーサルがあるらしい)の裏にぐらいしか垣間見れないだろう。
これまたお笑い芸人だが、以前やっていたラジオで松本人志が「トップ2は嘘や!!」と激怒していた。どういうことかというと、だいたいどこの分野にもそこの看板を背負って立つトップ2ないし3の人物や会社が存在し、熾烈なトップ1争いをしているように外側からは見えるが、内実はどれも違うと、彼はいうのだ。本当は、トップ1だけが頭一つ抜けていることが多いのだ。もしかするとこの90年代初頭、視聴率では日本テレビが野球中継の好調もあって四冠を独占中ではあったが、もし各局の「バラエティー偏差値」なる指標があったとすれば、フジテレビだけが飛び抜けて高かったのかもしれない。


ちなみに、そんなさんまから著者が学んだというのが、「トークはサッカーのようなものだ」ということ。

それぞれが自分の役割をわかって行動し、ボールを廻しているうちに誰かがシュートをする。できるだけいいボールをアシストしているとたまに自分にも絶好のボールが来る。そういう時はそれを思いきりシュートする

なるほど、この引用部はそのまま現代サッカーの主流を成す「トータルフットボール」の説明としても使えるし言い得て妙だなとは思うのだけれど、現行不一致というか、さんま自身はよく「味方から無理矢理ボールを奪ってシュート」とか「触らなくても入っていたのに自分で触って自分のゴールに」とか、もしくは「神の手」みたいなのも今まであったんじゃ亡かろうかとは思うのだが、それはまあいいのだろう。理論とプレイは別物だ。



…唐突であるけれど、頑張りすぎました。パトラッシュ疲れたよ。ということで、今日のところはここまで。あとはみなさま書店にいって読んでみてください。2007年までのM-1詳細レビューなど、まだまだいろいろあります。気が向いたらまたこの記事は加筆するかもしれませんが。

あとMCコミヤの消息についてご心配されている方も多いかと思いますが、彼はもともと役者志向が強く、今は小劇場を中心に活躍しているそうです。ご安心ください。