いいんちょさんのありゃあブログ

85年生まれ、おうし座。今考えてることと、好きなこと、嫌いなことについて

聞いてるけど「理解してない」人っているよね

先日あるシンポジウムを聞きに行き、そのときに感じたことが今日のタイトルなのだけれど、そこで起こったことを一言一句、個別具体的な名称までバシッと明らかにして書くのはさすがにまずいなということで、ぼかしぼかしそのとき起こったことを綴ります。

ここでは「ほにゃらら」、ということにしておきましょう。今これを読んでいるあなたは、「ほにゃらら」の欄にお好きな単語を想像で補ってください。「ねこ」でも「マッサージチェア」でも「Twitter」でも「TENGA」でも「クリント・イーストウッド」でもなんでもいい。というのも、今からする話は「ほにゃらら」に本当に入っていた事柄に限定されない、広く人間一般に当てはまることだと僕は思うからです。


シンポジウムの壇上では「ほにゃらら」について登壇した者同士の対談がなされていました。もっとも「ほにゃらら」について真っ向から論じると言うよりも、もっと大きな問題があってその傍流の問題として、「ほにゃらら」が論じられたわけです。

鼎談だったのですが、三者の意見に多少の違いはあれど、大枠では「ほにゃらら、ほにゃららと盛んに叫ばれているけれど、ほにゃららを重視するよりももっと根本の問題を解決しないとだめだよな。てかほにゃららを重視すんのはそれだけで害悪なんじゃね?」ということで一致していたと思います。

聴衆からは笑いも漏れ、本当におもしろく、終始和やかなムードのままシンポジウムは終了。続いてその聴衆の中から登壇した人の知人や同僚の人に、対談者への質問を受けるというミニコーナーのような場になりました。



そのときです。まさに今現在、とある「高等教育機関」で「ほにゃらら」系の研究に尽力するほにゃらら学の教授か准教授の方にマイクを向けられたのでした。


まあ檀上で話されていたことを一言一句聞き逃すまじという態度でなくとも、流し流しでも鼓膜に入れていれば、彼は自分の今の研究領域「ほにゃらら」の根本的なあり方に「それってどうよ!?」を差し挟まれたわけですから、一言二言は異論反論を投げかけてもよい立場なわけです。


ところがどっこい、マイクを渡されたそのほにゃらら学の権威は表情はニコニコ、
「いや〜、本当にお話おもしろかったです。」

大意ではあるものの、そのように開口一番でシンポジウムをべた褒め、満足度も高そう。そしてその後、ありとあらゆる美辞麗句で三人を褒め称えた後、最後にこう付け加えました。



「お三方には今後とも、ぜひ「ほにゃらら」をよりよいものにするためにお知恵を拝借したいと思いま」
いやいやちがうでしょ!!


繰り返しにはなりますが、檀上での議論を要約すれば、「ほにゃららの助長をこのままほっとくとどえらいことになるぞ」というものだったはず。その直後のレスポンスとして、「ぜひ「ほにゃらら」をよりよいものにするためにお知恵を拝借したい」はどう考えても間違っている。子供の頃に受けた国語のテストのあの会話文をつなげる問題なら、絶対に不正解です。だって文脈があいませんもん。
もしかすれば、「おめーらがどんなにここでウジウジ屁理屈こねたって「ほにゃらら」が大事だっていう世間の論調はかわんねーんだよwww」という意味を込めた強烈な皮肉だったのかもしれませんが、アドリブで出てきたとすれば少々できすぎているし、どうみてもそんな陰湿なことをしそうにないナイスミドルのかただったため、そんな意味ではなかったのだと思います。いや思いたい。


ではこのエピソードは、そのほにゃらら学の権威の致命的な読解力なさを示す証左だったのでしょうか。僕にはそうは思えません。

そうではなく、このエピソードで我々が学ぶべきはつまり、「その人の根本の部分を形作る思想や意見は、本人に変えさせるどころか、こちらが批判していることすら気づいてもらえない」、ということではないでしょうか。


フェミニスト小倉千加子という人が体験した、すでにいろいろなところで語られ書かれしているちょっと「有名な」ある種の笑い話。あるフェミ系のシンポジウムかなにかに出席した時、会が終わり女子トイレの個室に彼女が入っていると、トイレに複数人の主婦と思しき人たちが入ってきた。その会合の感想を口々に言い合っていた彼女たち。トイレを出る前最後にその中の一人が、「さーて、今から家に帰って(夫のために)夕飯作らなきゃ!!」(大意)と言ったんだとか。さすがの小倉もこれにはずっこけたらしいです。

もちろん僕はその場にいなかったので、小倉が檀上で話したことはわかりませんが、おそらくは、「さーて、今から家に帰って(夫のために)夕飯作らなきゃ!!」という文言とその裏にある思想と全くかけ離れた、正反対のことを述べていたはず。その小倉の意見をよく聞き、好意的に受け止めてもなお、なぜその主婦の口からそのような文言が飛び出すのか。


「言行不一致」といえば簡単ですが、そういう表現だけでは言い尽くせない、そこには「信心」的なものを僕は感じてしまいます。大地の存在を僕らが疑えないように、いや、疑ってもしかたがない途方もない存在として大地が横たわっているのと同じように、そういう「批判されているのに気づいてもらえない人」というのは、その「信仰対象」を非難されたとき、真っ赤に怒るのではなく、むしろ「理解されない」、ということも多々あるのかもしれません。
その信仰対象ごと、その人の立つ大地ごとひっぺがえすことを「治療」と呼んでいるのがまさに精神分析なのですが、この話はまた別の機会に。